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「神に結ばれるという実」 コリントの信徒への手紙二 9章6~15節

2016-11-20

 パウロは、なぜ異邦人の地から遥かに遠いエルサレムのユダヤ人教会を、献金をもって支えようとしたのでしょうか。 同胞の民であるユダヤ人たちに裏切り者だと憎まれ、疎まれていたにもかかわらず、このユダヤ人たちのために、なぜ献金をささげようとしたのでしょうか。 ユダヤ人の教会に献金をするなど関心の薄い異邦人の教会の人たち、むしろパウロが自分の私腹を肥やすために献金を集めているのではないかと中傷誹謗していた人たちを説得してまで、なぜ献金の業に拘ったのでしょうか。 それは、ユダヤ人であったパウロが、いつまで経ってもイエス・キリストの福音を受け入れようとしない同胞のユダヤ人たちを愛していたからです。 彼らを真の福音のもとに救うために、諦めていなかったからです。 生活の窮乏に陥っていたユダヤ人の教会を現実に助けるためです。 信仰の形や香りの違いによって亀裂が生じていた、異邦人の教会とユダヤ人の教会との間の交わりを造り上げるためです。 ともに協力して、更にキリストの福音を拡げていくためでした。 パウロは、「喜んで与える人を、神は愛してくださるから」、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに」献金をささげなさいと勧めます。 パウロにとって、献金をささげるということは、神に対する感謝です。 祈りや賛美、信仰の告白と同じことです。 神に向って行われる感謝の応答です。 神に仕える奉仕の業です。 祈りも、賛美も、信仰の告白も、献金も神に対する信仰の行いです。 イエス・キリストの贖いの恵みによって解放され、これからキリストを主として生きていく、キリストに仕えて生きていくという「献身」を表す信仰の表明であるとパウロは言っているのです。 ですから、私たちもまた、礼拝の中で、神に向ってささげます。 献身の表れとして、自分自身をささげます。 パウロは、「献金をささげる」とは、「種を蒔く」ことであるとたとえます。 気がつくにしても、気がつかないにしても、私たちは神のみ業によって多くの恵みをいただいています。 その恵みに対する感謝の応答が、神を礼拝する者の奉仕です。 しかし、考えてみてください。 私たちが受け取っている恵みは、気がつかないほど無尽蔵です。 私たちが精いっぱいささげても、たかが知れています。 神の側からみれば実に不十分なものです。 しかし、主はそれを決して不十分なものとは思われず、憐れみをもって受け取ってくださっています。 私たちの精いっぱいのささげものを、主は憐れみと慈しみをもって、そのささげているそのままの私たちを受け取ってくださって、その信仰を喜んでくださっているのです。 私たちは、受け取ってくださっているこの神の憐れみと慈しみを決して忘れてはなりません。 神の憐れみと慈しみを信じて、信頼と謙遜をもってささげます。 主の犠牲によってどれほどの豊かさを与えられたのかをわきまえ知って、祈りや賛美とともに礼拝で献身の表明として、神に向って自分自身をささげます。 「神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになるお方です。」 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになるお方です。」 「あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださるお方です。」とパウロは言います。 祝福が感謝をつくり出す。 その感謝が、神への信頼と謙遜によってささげられるところに、神が働いて更に用いてくださる。 その感謝が、更に必要としている隣人との交わりを産み出していく。 「ささげる」ということは、この神の働きに用いられてしっかりと「神に結ばれる実を結ぶ」ということではないでしょうか。 「ささげる」ところには、必ず主の祝福が起こされます。 「蒔く者が刈り取る神の報いは、慈しみが結ぶ実である」と言います。 



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