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「主を待ち望む人」 イザヤ書 30章15~18節

2016-12-04

 他国が攻め入ってきた時、「落ち着いて静かにしていなさい」と、預言者イザヤに戒められていたユダの国の人々は、エジプトの国の力に頼ってしまったのです。 主に信頼しないで、主のみ言葉に耳を貸さないで、エジプトの保護を求めてしまう。イザヤを通して語られた主のみ言葉を無視して、イザヤに隠して、使いをエジプトに送ってしまったのです。 エジプトこそ、かつて奴隷の身となり、ユダの人々が囚われて虐げられていた地のはずです。 たとえ貧しくとも、主のみ言葉に信頼して、自由を求め、民族を挙げてそこから脱出してきたはずです。 40年にもわたる荒野のさまよいを経て、やっと主が約束してくださった地に辿りついたのに、またそこへ戻って行こうとする。 主に信頼しないで、自らの知恵に頼り、逆の方向に向って財宝を乗せてまで、エジプトの王に助けを求めようとして使いをエジプトに送ってしまうのです。 そのようなユダの国の人々に語られた主の言葉が、「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。 しかし、わたしに立ち帰ることも、安らかに信頼することも望まなかった。 エジプトの軍備に頼って逃げようとした。 もっと大きな力に頼ろうとした。 しかし、その行き着く先は哀れな結果となる。」という厳しいみ言葉でした。 浮足立つ、このユダの国の人々の惨めな姿がここに映し出されています。 しかし、驚くべきことに、反逆の罪を厳しく裁かれるそのお方が同時に、罪そのものを裁き洗い流した後には「罪にまみれて虚ろう人々を救うために、恵みを与えようとして待っておられる。 憐れみを与えようと立ち上がっておられる。 なんと幸いなことか、主を待ち望む人は。」と告げるのです。 
 イザヤを通して語りかけるこの主なる神の姿と浮足立つユダの人々の姿に、最後の晩餐の時に示されたイエスの姿と弟子たちの姿が重なります。 私たちはユダの人々と同じです。 目に見えるものだけに目を奪われて、自分の求めに従います。 自分たちが求めている声だけに耳を傾けます。 何度も、この世の霊に誘われるままに、過ちを犯してしまいます。エジプトの力に頼る私たちの姿がそこにあります。 ひとりの例外もなく、私たちは主イエスを悲しませる者です。 ですからイエスは、十字架の死によって、過ちにまみれた私たちの足を一人ずつ洗ってくださるのです。 だれも手をつけないこの汚れた足に触れて、十字架で流してくださった血と涙によって洗い、腰にまいた手ぬぐいをもって拭きとってくださるのです。 一度や二度のことではありません。 罪による永遠の死の恐ろしさを、本当に知り尽くしておられる唯一のお方、その主イエスが、私たちのすべての過ちを一身に引き受けてくださったのです。 過ちにまみれたこの足を洗ってくださるお方がおられるからこそ、私たちは主に従う道を歩んで行くことができるのです。 「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。」と預言されました。 このイザヤの預言する「その日」こそ、救い主イエス・キリストの誕生によって成し遂げられたのです。 私たちは目に見える力、エジプトに頼る者です。 逆戻りして、もといたエジプトに戻ろうとする愚かな者です。 常識というものさしで浅はかに動いてしまう者です。 最初にクリスマスが訪れたマリアも、私たちと同じでした。 常識で判断すれば、神に告げられたことは不安と恐れのうちに逃げ出してしまいたい、そういう事柄でした。 しかし、そうした中でも、マリアは解決しないまま、その不安と恐れを担ったまま、「お言葉どおり、この身になりますように」と、主のみ言葉に生涯をかけて従ったのです。 私たちは主の誕生によって、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、主を信じることが、また主を待ち望むことが赦されるようになったのです。



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