「違いを受け入れるということ」 マタイによる福音書15章21~28節
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」と言います。 盛んに福音を宣べ伝え巡っていたガリラヤ地方からイエスは退いて、異邦人の町に行かれたのです。 イエスがイスラエルの地から異邦人の町に出向いて行かれたのは、この時だけと言われています。 12人の弟子たちを派遣する時にイエスは、「あなたがたは異邦人の道に行ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われたぐらい、ご自身の宣教の働きはイスラエルに向かってのものでした。 そうであるのに、イエスが異邦人の町に退かれたのには理由があるでしょう。 ファリサイ派の人々の自分たちの信仰こそ絶対のものであるとする思い上がり、錯覚している姿に失望したからでしょうか。 エルサレムから派遣されてきたユダヤ教の指導者たちの監視の目が厳しくなったからでしょうか。 イエスが単に疲れ休息を求めたから、あるいは自分の身を守るために退いたとは思えない。 むしろ、神の民であるイスラエルの人々が、アブラハムの子孫であること、定められた律法・儀式を守っていることを誇る神のみ心なき姿に、イエスご自身が信仰の試練に立たされていたのではないか。 心静かに祈りの時をもち、神との交わりに集中しようとされたのではないかと思わされるのです。 その時訪れた異邦の町で、イエスは父なる神の用意された「意図しないひとりのカナン人の女性との出会い」を迎えるのです。
カナン人は先住民で、後から入り込んできたイスラエル人とは対立関係にあります。 この女性は、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。 娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫びます。 これが彼女の「最初の祈り」です。 自分が心から愛している者を思っての激しい祈りです。 弟子たちはイエスに、「早く癒して差し上げて、この女を追い払ってください。」と進言します。 からだが癒されることだけを求める人々の姿を、弟子たちは数多く目に焼き付けていたのでしょう。 苦しんでいる娘を助けてくださいという、自分のために神の力を貸してくださいという切実な「祈り」です。 しかし、この女性は「父よ、ダビデの子よ」とイエスに呼びかけているのです。 「あなたこそ、イスラエルの民の救いのために神のもとから遣わされてきたお方です。」という、異邦人の口から出てくる言葉ではない呼びかけです。 イスラエルの民に約束された祝福に、この一人の異邦人が気づき、同じように受け取ろうとしていることにイエスは驚いたに違いない。 イスラエルだけに宣教の目が向いていたイエスはこの瞬間から、父なる神のみ心を激しく尋ね求め始めたに違いない。 「イエスは何もお答えにならなかった」とあります。 この沈黙は拒絶でしょうか。 ここで諦めたとしてもこの状態を受け入れるしかない女性に、「主よ、どうかお助けください。」という短い「第二の祈り」が生まれるのです。 聞き入れられない「虚しさ」、小犬と差別されたかのような「屈辱」、一人で訴えなければならない「孤独」もあったでしょう。 絶望して初めて見えてくるものがあるのです。 イスラエルの子どもにも、その家で飼われている飼い犬にも、今、約束の祝福が授けられようとしていることに気づいた女性の「祈り」は、「第三の祈り」に変えられていくのです。 「主よ、ごもっともです。 授けられるものはイスラエルのものでも、異邦人のものでもない。 神ご自身のため、神ご自身のご計画のために授けられるものである。 そこからこぼれ落ちるパン屑を私たちはいただくのです。」という女性の「第三の祈り」にイエスは、「あなたの信仰は立派だ。」と送り出されたのです。 一方イエスは、人種を超えてすべての人々を救いに招くために呼びかけられる神のみ心だけが果たされていくことに気づかされ、再びこの異邦の地からイスラエルの地に戻り、十字架の上にまで歩み始められたのです。
「御計画に従って召された者たち」 ローマの信徒への手紙8章26~30節
エレミヤ書29章には、壮大な神の救いのご計画が記されています。 ユダの国がバビロンの国に占領され、ユダの王も、主だった家臣、兵士、職人たちも大勢バビロンに連れ去られたことを嘆いている時です。 驚くべきことに、預言者エレミヤによりバビロンに連れ去られた人々へ、「神が、エルサレムからバビロンへ捕囚としてユダの人々を送ったのだ。」と伝えられたのです。 神はたとえそれが敵と思われるところであったとしても、ご自身の民を敵に渡してまで救い出されるのです。 「わたしが、あなたたちを捕囚として送ったその町の平安を求めなさい。 その町のために祈りなさい。」とまで言われるのです。 もう済んでしまったから諦めなさいと言わんばかりの言葉です。 「二年のうちに、バビロンは滅ぼされ、バビロンに連れ去られた人々は必ず戻ってくる。」という偽預言者や占い師たちにだまされても、惑わされてもならない。 神のみ心である御計画とは異なる。 今、災いと思われているかもしれないバビロンの地にあること、バビロンの支配にあることは、神のみ心であり神の御計画である。 あなたたちのために立てたわたしの計画は、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。 バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしの恵みの約束を果たす。 あなたたちをこの地に連れ戻す。 そのとき、あなたがたがわたしを呼び、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うだろう。 わたしはあなたたちを追いやったが、そこから呼び集め、追い出した元の場所に連れ戻す、帰らせると言われるのです。
この70年の時の経過は何であったのでしょうか。 「2年のうちには」という私たちの心地よいはかない希望から目を覚ますためでしょう。 目に見えるものにすがろうとする私たちの本当の姿を見つめるためでしょう。 私たちを憐れんでずっと見守って、我慢して待ち続けてくださる神の忍耐の時でしょう。 神の救いの御計画が果たされる時まで、ことごとく神のみ心でないものが次々と砕かれていく。 私たちの描く希望が絶望に替わり、神の恵みによって全く新しいものに造り変えられていく。 不可能を可能とする、無から有を造り出す神の御計画が果たされるのを知らされるのです。 言われたとおり、エルサレムは崩れ去りました。 しかし、バビロンはペルシャ帝国に占領され、ユダの国の人々は解放されエルサレムに戻されたのです。 今日の聖書箇所に、「同様に、霊も言葉に表せないうめきをもって執り成している」と言います。 このうめきは、被造物やイエスを信じていこうとするキリスト者がうめいている呻きとは異なり、「私たちの弱さに寄り添って助けてくださる」ものです。 霊は、言葉に言い表せないうめきをもって、私たちの弱さのゆえに執り成しの祈りをしてくださっているのです。 この「霊」こそ、十字架の上に架け上がってくださって、私たちが味わっている弱さや苦しみや悲しみを一人で背負って,一身に神の裁きを受けておられるイエス・キリストの姿でしょう。 姿を変えて、今もなお私たちの内に宿ってくださっている復活者イエス・キリストでしょう。 父なる神は、霊なるイエス・キリストが執り成し続けていることをすべてご存じであると言うのです。 私たちの味わう試練や苦しみや悲しみは神の御計画のうちにあるものです。 意味あるものです。 そのために召し集められた私たちです。 「万事が益となるように共に働く」とは、最後にはすべて神の救いの御計画通りに果たされていくという神の宣言です。 その「御計画に従って召し集められた者たち」が、「義とされる」、「栄光を与えられる」のです。 神の恵みによって、無償で神の前に正しい者とされる。 神がその人に現れ、共に歩み、働かれ、御子に似た者とされるのです。 それが神の約束です。
「私たちの外側と内側」 ルカによる福音書11章37~44節
イエスを食事に招いたファリサイ派の人が、「イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」と言います。 「身を清める」とは、手を洗うとかきれいにするとかという衛生上の問題ではありません。 神の前に正しい者と認められるために、行われなければならなかった儀式、作法です。 ファリサイ派の人々にとっては、当たり前のことです。 だれもが行う食事前の常識的な振る舞いです。 その為の特別大きな水瓶が、それぞれの家に備えられていたのです。 どのように行われるのかという順序まで、律法に細かく定められていたのです。 私たちの世界にも、人の権威によって形づけられたものを、その権威にしがみついている人々が壊されないようにと固く守っています。 イエスはそのことを十分分かったうえでわざと手を洗うという儀式をしなかったのか、無頓着であったのか分かりませんが、このイエスの振る舞いが物議を醸し出したのです。 不審に思ったファリサイ派の人々を前にしてイエスは、「あなたがたは外側はきれいにするが、内側はそれとは逆のもので満ち溢れている。 神は人間の外側も内側をお造りになったではないか。」と言われたのです。 常識に縛られた者にとっては、このイエスの言葉は理解不能です。 問題外です。 イエスはそれにお構いなく、「人間は外側と内側を併せ持つひとつの存在ではないか。 あなたがたは外側だけを問題として、外側だけをきれいにすることに熱心である。 しかし、その内側は、外側にふさわしいものに満たされていない。 その内側を、外側をもってきれいに洗い流そうとしている。 片一方だけで生きている。」とまで言われるのです。
イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。 それは偽善である。」ときっぱりと語っています。 「偽善」とは、外側と内側とでその中味が違う。 内側が、外側によって覆われて隠されているということでしょう。 そのことに気がつかないうちに、イースト菌のごとく広まって膨張しているといったところでしょうか。 イエスの言われる問題の核心は、「それが正しいことだ。 最もよいことだ」と、「それ以外は間違いだ、悪いことだ」と決めつけ、断定し、裁いてしまうということです。 イエスは、私たちが力のない者、貧しい者、小さな者であることを十分承知の上で、私たちを「飼い主のいない羊のような有様だ」と憐れんでくださっているのです。 ですから、「父なる神は、あなたがたの外側も内側もお造りになったお方ではないか。 私たちの奥底まで見通されているお方ではないか。 だから繕う必要もないし、装う必要もない。 すべて、神はご存じである。」と言われているのです。
定められた通り十分の一を献げることに注力し、人に見える形で献げる。 自分を大きく見せるために施しをする。 立派な祈りを人に聴かせるために装う。 「会堂では上席に着くことを望み、広場では人々から丁寧に挨拶されることを好む。」 人々の賞賛、尊敬を求めてしまう。 人の前だけに立ち、人を恐れて繕い装う姿を捨てて、神の前に立ち、神を畏れて身を委ねていくようにと、神以外のものを絶対視する危険性を、この食事の席できっぱりとイエスは否定されたのです。 イエスはすべてご存じのうえで「不幸だ、災いだ」と言われ、幸いな生涯へと招いておられるのです。 些末なことを捨てて、変わることのない神のご真実、神の絶対的な正しさだけを求めなさい。 私たちの人間の側の資格や行いや思いによらない、絶対無条件の神の恵み、ご愛だけを願い求めなさい。 自分の内側に溢れている絶対的なものとは程遠いものを捨てて、神ならぬものに内側を奪われることなく、神の前に立って絶対的な神のもとからしか授けられないものだけをしっかりと受け取るようにと言われたのです。
「私たちの中にある光」 ルカによる福音書11章33~36節
二つの譬えが、十字架を覚悟したイエスによって語られています。 「ともし火」の譬えと「目」の譬えです。 「ともし火は、入って来る人に光が見えるように、分かるように燭台の上に置かれるだろう。 決して、穴蔵の中や、升の下に置く者はいないだろう。」と言われます。 「ともし火」とは、イエスご自身のことです。 イエスは、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。 なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」(ヨハネ8:12,16)と言われました。 イエスによってもたらされた「命の光」を、人々が見えるように輝かしなさいと弟子たち、私たちに呼びかけておられるのです。 「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい。 しかし、目が濁っていれば、あなたの全身も暗い。」と、「命の光」は目を通して全身にその輝きが行き渡ると言われるのです。 外に向けて「命の光」が家の中や周りを照らしているのが見えているでしょうか。 内に向かって照らし出す「命の光」によって、自分自身がどこにいて、どのような状態であるのか見えているでしょうかとイエスは迫るのです。 「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」と勧めておられるのです。 イエスにあって授けられた「命の光」こそ、私たちの力だけでは起こし得ないものです。 イエスとの出会いによって初めて起こされる輝きです。 このことを強く思わされる出来事が聖書に記されています。
イエスによって「生まれつき目の見えない人」が見えるようになった、シロアムの池での出来事です。 弟子たちが「生まれつき目の見えない人」を見て、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねたのです。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」と答えた有名なイエスの言葉です。 これは教えを説くために語ったのではなく、これからこの人に起こされる神の業が、イエスの目にはもうすでに見えていたからです。 「唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、その通りに行ったその人の目は見えるようになり人々は驚いたのです。 問題はその後の時の経過です。 この人は自分の目が見えるようになった嬉しさの余り、だれが治してくれたのかさえ答えることができなかった。 ファリサイ派の人々の執拗な問い詰めに、この人は次第に自分を癒してくれたお方に目を向けるようになっていくのです。 「あの方が罪人であるかどうか、わたしには分かりません。 しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、神はお聞きになります。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」とまで、堂々と証言をするまでになったのです。 その直後、イエスはその場を追い出されたこの人に再び出会って呼びかけるのです。 その時です。 この人は、「主よ、信じます。」と言って、イエスのもとにひざまずいたと言います。 この告白にイエスは応えて、「わたしがこの世に来たのは、見えない者は見えるようになる。」という神の国の到来の現実を語られたのです。 肉眼が開かれただけでなく心の目まで開かれた、イエスの目には見えていた「神の業」が起こされ、「命の光」がそこに灯されたのです。 イエスは、「入って来る人にこの命の光が見えるように、人々の前に輝かしなさい。」と言われました。 神の恵みの世界は、この世においてこの「命の光」に照らし出された人々の群れの中に訪れる。 神の目に留まり、呼びかけられ、癒され、愛され、赦され、新しい命に生かされた者に、「命の光が消えてしまわないように調べなさい」とおっしゃっておられるのです。 イエスと出会い、迎え入れられ、語られるみ言葉に聴いてそれに身を委ねて生きることです。
「マルタとマリアの信仰」 ルカによる福音書10章38~42節
マルタとマリアの小さな家庭での出来事です。 「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」と言います。 ユダヤの指導者たちが、盛んに教えを宣べているナザレの人イエスは、民衆を間違った教えに扇動していると言っている最中に、マルタは世間を恐れずこの家を代表して、イエスを喜んで迎え入れているのです。 この家の家族が家を開放して、世間の風潮に囚われず喜んでイエスを迎え入れているということです。 そのマルタは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と言います。 料理上手で、手の込んだ最高の御馳走をふるまってもてなそうとしたのでしょう。 その一心で、あれもこれもとしなければならないことに、頭と心の中が詰まっていたのでしょう。 一方、マリアは、「主の足もとに座って、イエスの話に聞き入っていた」と言います。 当時は、教師から教えを乞うために、弟子たちは木陰で、教師の足もとに座って、その教えに耳を傾けて教師に親しく語りかけたと言います。 「主の足もとに座る」という姿は、教師と弟子との親しい関係を表現しているのです。
どちらの姉妹も、イエスを喜んで迎え入れているのです。 ところが、切羽詰まって思いつめていたマルタは、ついついマリアの姿に心が破れてしまいます。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。 手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 とても、客人に対して語る言葉とは思えません。 マルタとイエスの関係の近さを感じさせます。 これに対するイエスの言葉です。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただひとつだけである。」 「マルタ、マルタ」という二度の呼びかけに、親のようなイエスの思いやりを感じます。 イエスは、今日食べる物がない、明日着る物がない厳しい状態にある人たちに向けて、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言われました。 究極の選択とも言える驚きの言葉です。 「思い悩む」とは、自分の力でどうしたらやっていけるのかと考えることでしょう。 自分の経験、知恵や知識、自分がもっているものを見つめて、どうしたらこの場を乗り越えていけるだろうかという行き詰まりの状態を言うのでしょう。 しかし、私たちには、自分の力だけではどうすることもできないことがあります。 思い悩んでも仕方のないことがあります。 ある意味、思い悩むことができるのは幸いなことであるかもしれません。 一羽の雀でさえ、神なしでは地に落ちることはない。 一本の髪の毛でさえも忘れ去られることはないとイエスはおっしゃっています。 「多くのこと」があるかもしれない。 しかし、必要なことは「ただ一つのこと」である。 「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」と、イエスは言います。 神のみ言葉を聴くためには、恥ずかしくとも醜くともありのままの姿をもって神の前に出て行かなければなりません。 「守る」とは、行いのことではなく、神のみ言葉を宿して、神のみ心の内に歩ませてくださいと祈ることでしょう。 ここまで導いてくださった主イエスに信頼し身を委ねて、共に生きていこうと小さな決断を繰り返していくことでしょう。 イエスは、「マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」と言われました。 マルタの呼びかけに、この小さな家庭に入って行かれたのはイエスの方からです。 この家庭に、それぞれの家族に、ふさわしい恵みと祝福と救いを与えるためです。 イエスは喜んで、マルタのもてなしもマリアのもてなしも受け入れてくださったのです。 イエスはマルタに、「必要な一つだけのこと」とは、父なる神が選んで準備してくださったものを自ら決断して受け取ることだと喜んで招いておられるのです。
「恐るべき者は」 マタイによる福音書10章26~31節
聖書箇所に出てくる3回の「恐れるな」という言葉と、1回の「恐れなさい」というみ言葉から、イエスの励ましと力とご愛を頂きたいと願います。 イエスは、群衆が「飼い主のいない羊」のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になって、深く憐れんでおられました。 そして、弟子たちに力をお授けになり、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すために、12人の使徒を選んでこの世に送り出されました。 イエスは彼らに、「この世の人々を恐れてはならない。」 「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」と励まします。 イエスご自身が表現されたように、愛する弟子たちをこの世に送り出すのは、「狼の群れに羊を送り込むようなもの」でした。 恐れと不安の中にある弟子たちの状態を十分知り尽くしたうえで、恐れても仕方のない弟子たちに「恐れてはならない」と励ましておられるのです。 その理由は、「1アサリオンで売られている庭の雀の一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」からだ。 「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」からだと言われるのです。 小さな存在の一羽の雀、一本の髪の毛もまた、父なる神のお許しの中にあることだから、あなたがたは「恐れる」理由がないと言っておられるのです。 私たちは何かにつけ、恐れや不安を抱く者です。 人に頼り、神に頼り、支えられてやっとの思いで今ある存在であることを十分知っています。 自分の力で、自分の知恵で、自分の才覚で、今を生きているのではないことを知れば知るほど、神なしでは恐れや不安や心配が起こってくるでしょう。 なればこそ、この恐れと不安と心配を超えた、「わたしがともにいる。 恐れるな。」と言われるお方への祈りと信仰が益々起こされていくのではないでしょうか。 この「恐れるな」という呼びかけには、「この方がおられるのなら、一羽の雀でさえ地に落ちることはない。 一本の髪の毛でさえ忘れ去られることはない。」とイエスが言われるお方こそ、「本当に畏れるべきお方」、魂も体も滅ぼすことができるすべての権威と力をもっておられるお方なのではないでしょうか。 そのお方がこのような小さな存在である「私」のうえにも共にいてくださるという驚きにも似た「畏怖」に導かれるようにとイエスの熱情が込められています。
「恐れてはならないもの」と「信頼と感謝と驚きをもって畏れるべきもの」を示して、弟子たちを世に送り出すに際して憐れみと励ましをもって語っておられるのです。 神の業、神のご計画は、私たちにとって予測不能です。 ですから、神を信じることのできない人々には、神の起こされる出来事は「恐怖」でしょう。 しかし、神を信じることのできる人々には、とめどもないものに触れた「驚きと喜びの畏怖」となるでしょう。 イエスは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と約束されています。 パウロがローマに向かって船出した時のことです。 暴風に襲われ、今にも船が難破しようかというその時です。 恐れと不安と心配が渦巻く船の中で、パウロに届いた神の言葉です。 「パウロ、恐れるな。 あなたにはしなければならないことがある。 わたしはそれをあなたに託している。 そのために、一緒に船による航海をしているすべての者をあなたに任せたのだ。」 この呼びかけを受けて、恐れと不安と心配に覆われた船の中の人々に対して語ったパウロの言葉です。 「わたしは神を信じます。 そのとおりになります。 わたしたちは必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。 船は失うが、誰一人として命を失う者はない。」 私たちの小さな群れに、おいでになってくださる神を仰いで、「驚きと喜びと感謝の畏怖」の声をご一緒に挙げたいと願います。
「この世で戻る場所」 使徒言行録4章23~31節
今までびくびくして片隅の部屋に閉じこもる小さな存在であった弟子たちは、様変わりの堂々とした姿を見せています。 エルサレム神殿の境内に運ばれてきた、生まれながら足の不自由な男をペトロとヨハネはじっと見て、「わたしたちを見なさい。 わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と、彼の右手を取って立ち上がらせたのです。 「イエス・キリストの名によって」とは、イエス・キリストの力を呼び出すことによってということです。 当時のユダヤ社会では、名前こそその人の権威、力、人格の象徴でした。 その立ち直った男がペトロとヨハネに付きまとっている姿を示しながら、二人は「生まれながら足の不自由なこの人が歩き回ったり、踊ったりして神を賛美しているのは、イエス・キリストの名によって救われたのです。 これはその名を信じる信仰によるものです。」と大胆に語り出したのです。 これを知ったユダヤの指導者たちは束になって、この二人を捕らえて牢に入れます。 二人に尋問と警告を与えるためです。 人々の病いを癒す、神殿で教える、そして、ユダヤの指導者たちに問い詰められる。 この姿こそ、まさにイエスご自身の姿です。 その尋問に、「わたしたちが彼の病いを治したわけではない。 イエス・キリストご自身がなさったことである。 あなたがたが十字架で殺したイエス・キリストが、神によってよみがえらされて今も働いておられる。」と大胆に語ったのでした。 どう処罰してよいか分からなかったユダヤの指導者たちは、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命令し、脅して釈放したのです。
その釈放された二人が先ず赴いたところが、仲間のいるところでした。 一同がひとつとなって集まって祈っていたところ、一人一人の上に聖霊が降り語るべき言葉が与えられたところです。 釈放されたペトロとヨハネが先ず行ったことは、「厳しい尋問に晒された時にも、わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではおれないのですと答えた。」という「証し」でしょう。 「何の権威で、だれの名によってするのかと問われて、イエス・キリストの名によってと答えた。 イエスこそメシアである。 ほかのだれによっても救いは得られないと答えた」という「証し」でしょう。 自分たちが受けたこと、命令されたことの一部始終を「残らず」語り、その苦しみと喜びを分かち合ったことです。 その「証し」を聞いた仲間たちも、戻って来てよかったと釈放された二人を迎えたのではありません。 「仲間たちが心を一つにし、神に向かって声をあげた」と言います。 「あなたは全地の造り主です。 あなたが預言者たちを通して語られたみ言葉通り、御手と御心によってあらかじめ定められていたことをすべて行ってくださった」と、確信をもって神に信頼の喜びの声をあげたのです。 精いっぱいの信仰告白です。 これに神は応えて、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、わたしたちが思い切って大胆にみ言葉を語ることができるように。」という「祈り」を彼らに与えられたのです。 自分たちを危険から守ってくださいとか、どうしたらよいのでしょうかという「祈り」ではありません。 「大胆にみ言葉を語ることができるように。 イエス・キリストの名によって病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるように」と期待して祈っているのです。 この「祈り」が終ると、「一同の集まっていた場所が揺り動いた。」と言います。 この喜びは、神のご計画がこの自分たちのうえにイエス・キリストの名によって刻まれようとしている喜びです。 そのために「信仰」と「祈り」が必ず与えられるのです。 戻って行く場所があるのです。 そのことに感謝して、「信仰」が与えられるよう、「祈り」が与えられるよう、神に向かって「信仰」と「祈り」の声を一緒にあげているのです。
「交わりの回復」 使徒言行録2章1~13節
聖霊が降ってきた時の情景が記されています。 よみがえられたイエスが再三弟子たちにご自身が生きておられることをお示しになった際に、「前にわたしから聞いた、神の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と言われていました。 その弟子たち「一同が一つとなって集まって祈っていたところ」です。 その弟子たち一人一人の上に言葉では表現しようのないものがとどまり、約束されていた賜物、聖霊に満たされたと言うのです。 すると、今まで自分たちの部屋に鍵をかけて祈り合っていた弟子たちが、鍵を開けて、自ら扉を開けて、今まで恐れていたエルサレムの外に向かって動き出した。 その聖霊が語らせるままに、自分たちが使っていた言葉ではない新しい言葉を語り出したと言うのです。 自分の故郷の言葉しか話すことのできなかった弟子たちが、世界に散らされていた神の民に向けて、それぞれが聞き届けることができるほどの新しい言葉をもって語り出した。 ひとつとなって祈り集まっている弟子たち一同のもとに、神が約束された聖霊を降され、彼らを用いて、今までまったく遮断されていた部屋の外に向かって、授けられた新しい言葉によって神の業を伝える「交わり」を取り戻していく出来事が起こされたと言うのです。
言葉は、人と人との大事な「交わり」を支えるにしても、壊すにしても大きな役割を果たします。 創世記に出てくるわずか20行の短い「バベルの塔」の出来事を思い起こします。 その当時、「世界中は同じ言葉を使っていた」と言います。 「移動してきた人々が、そこに住み着いた。 様々なものを見つけ出し、それを用いる技術も手に入れた。 そこに定住し、町を皆で築き上げるまでになった。 神との交わりを象徴する高い塔を立て上げた。 文明も知識も仕組みも整えられた。 次第に人々は誇りをもつようになっていった。」 「もっと有名になろう。 全地に散らされることのないようにしよう。 天まで届く塔のある町にしよう。」と言うまでになった。 自分たちが胸を張って誇れるようになりたい。 これで安心だと頼れるものがほしい。 どのようなことになっても拠り所となるものがこの町にほしい。 これが「バベルの塔」の建設です。 神はこの有様をご覧になって、憐れに思われて、降って来てくださって彼らが語る言葉に混乱を与え、互いの言葉が聞き分けられないようにして、そこから彼らを全地に散らされたのでした。 時が経って、今朝の聖書箇所です。 十字架によってイエスを失い途方に暮れて、心がバラナラになって、エルサレムの片隅に閉じこもっていた弱い、力のない、小さな存在であった弟子たちが、神によって再び集められ、神の群れとされたのです。 各地に散らされていた神の民の群れが祭りを通してエルサレムに集められたのです。 弟子たちには、今までとは異なる新しい言葉が聖霊に導かれて与えられたのでした。 聞く側の人々もまた、弟子たちに授けられた神によって与えられた言葉を聞く力を与えられたのでした。 言葉を語る者にも、言葉を聞く者にも神が働かれたのです。 神との「交わり」を再び取り戻すために、弟子たちの「交わり」が回復されるために、散らされていたはずの人々と弟子たちとの「交わり」が回復されるために、この出来事が起こされたと聖書は語ります。 「天まで届く塔」とは、自分たちが神によって造られたことを忘れて、私たちに恵みとして与えられたものを自分たちの安心のために用いようとしたしるしです。 自分たちが神にとって替わる拠り所を自分たちがつくり上げようとしたものです。 神は、この「神なき交わり」を完全に破壊されたのです。 神との「交わり」こそが、人と人との「交わり」をつくり上げることを思い起こさせようとされたのです。 このイエスの働きが弟子たちに引き継がれたのが、ペンテコステの出来事です。
「創造される清い心」 詩編51編3~14節
このダビデの「嘆きの祈り」には、サムエル記下11章および12章に記されている背景があります。 王であるダビデがその家臣、全軍を戦いのために戦地に送り出した。 自身は、エルサレムに留まっていた。 家臣であったウリヤの妻バト・シェバの姿に、ダビデは目を染めて王宮に召し入れた。 その後、ダビデは王の権威をもって、「激しい戦いの最前線に家臣ウリヤを送り出し、彼をそこに残して、軍を退却させ、ウリヤを戦死させよ」という卑劣な命令を降すのです。 ダビデの思惑通り、家臣ウリヤを死なせたと言います。 そして、ダビデはウリヤの妻バト・シェバを王宮に引き取り、自分の妻とし思いを遂げるのです。 聖書はこのことをはっきりと、「ダビデのしたことは、主の御心に適わなかった。 主は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わされた。 主はナタンを通して、ダビデを激しく叱責した。 なぜ、主の言葉を侮り、わたしの意を背くことをしたのか。 あなたは隠れてこのことを行ったが、わたしは白日のもとにさらす。」と単刀直入にダビデに指摘したのです。 ダビデはこれに、「わたしは主に罪を犯しました。」と深く悔いています。 なぜダビデがこのような「祈り」をささげるようになったのかとその原因を探るより、この「嘆きの祈り」にある主を仰いで祈る「祈り」に合わせて、私たち自身が祈る「祈り」が与えられることを願いたいと思います。
私たちは、自分の犯した過ちを何とか正当化しようとします。 少しでも責任を軽くしよう、免れようと努めます。 これでいいと、自分を納得させようとします。 ダビデはそうではありません。 自分自身が犯した過ちは、神の目だけには明白である。 責任を免れ得ない、時を遡ってもう一度やり直しをしたいといった願いではなく、取り返しのつかないものであると告白します。 そのうえで、「神よ、わたしを慈しみをもって憐れんでください。 背きの罪をぬぐってください。」と、神の赦しがあること、救いがあることに望みを抱いて、神の憐れみと慈しみにすがろうと懸命に祈っているのです。 「憐れんでください。 ぬぐってください。 清めてください。 払ってください。 洗ってください。」と、表現はまちまちですが繰り返しています。 自分が犯した過ちを口に出して、神の前に差し出して、赦しと救いを願い出るということは、だれにも見せたくない恥ずかしいことです。 自分ではぬぐうことのできないことであると認めて差し出す勇気のいることです。 人は人知れずきれいになって、何事もなかったかのように振る舞いたいのです。 自分で洗って、もう一度やり直しがしたいのです。 自分の恥ずかしいところを認めて、さらけ出して、自分でぬぐうことができないことを認めて、神に助けを求めている。 これがダビデの「嘆きの祈り」です。 神の求められるものは打ち砕かれた霊。 神は、打ち砕かれ悔いる心を侮られません。」と確信して祈る「祈り」です。 神はこの赤裸々なダビデの「祈り」をどれほど喜んでおられるでしょうか。 ダビデは、「神よ、わたしの内に清い心を創造してください。」と祈っています。 もとのきれいなものに戻してくださいとは祈っていないのです。 「神よ、新しく確かな霊を授けてください。」と、神にしかできないこと、神から与えられなければできないことを「創造してください」と祈っているのです。 ダビデの「祈り」は後悔や懺悔の「祈り」ではありません。 新しく造り変えられることを望む「祈り」です。 今まで見えていなかった、聞くことのできなかった方向に向きを変えて、新しく生きていこうとする「祈り」です。 悔い改めは反省や後悔ではありません。 神によって授けられる「祈り」です。 神のもとから遣わされた主イエスに結ばれて、よりすがって、造り変えられて生きていこうとする「祈り」の姿です。
「命の選択の決断」 ヨハネによる福音書15章1~5節 申命記30章15~20節
私たちが行う選択には、「判断」と「決断」があります。 私たちはできるだけ正しい「判断」をしようと、理解し納得することができるよう奔走します。 しかし、コロナに象徴されるように何がいったい正しい「判断」なのか分からない、100%信じ切るものさしなどない中で生きていかなければならない時があります。 「判断」できない中で、それでも踏み出すのか留まるのか、その「決断」を迫られる時があります。 「決断」すべき時に、正しい「判断」を求めて逡巡し「決断」できない時があります。 そこには、手っ取り早いマニュアルの答えなどないのです。 「隠されている事柄は、主のもとにある。 しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。」(申命記29:28)とあるように、神を信じるという「決断」に委ねて生きることができる恵みが私たちに与えられているのです。
モーセはその人生の最後に、40年もの間、エジプトから奴隷の身であった大勢のイスラエルの人々を引き連れて、荒れ野の旅を終え、いよいよヨルダン川を渡り、その向こう側にある新しい約束の地に入って行こうとする時に、人々にこう語りかけるのです。 「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。 あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、命を得る。 あなたは祝福される。 あなたは命を選び、命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」と語ります。 私たちの前には、「生と死、祝福と呪い」と思われるものが置かれる。 どちらも選び取ることができるし、そのことが赦されている。 しかし、神は「命を選び取るように、命を得るように」と言われる。 私たちは、神が祝福し喜んでくださることを選び取るはずです。 しかし、「死や呪いや災い」は、見たくもない姿をとって現れ出てこない。 人目をひく魅力をもってすり寄ってくる。 もっともらしい正しさをとって近づいてくるのです。 一方、「生や祝福や幸い」もまた、私たちの目には喜ばしい姿をとって見えてこないのです。 私たちの覚つかない「判断」だけでは、神の望んでおられる道を誤って選び取ってしまうのです。 よく考えてみてください。 神は私たちの前に置くべきものを、もうすでに選んで置いてくださっているのです。 私たちが選択する前に、神が責任をもって、神の強い意志と願いによって神の選択が施されているのです。 置かれているものを、私たちがどう受け取っていくのかが私たちの選択です。 うまくいっている時には神に選ばれた民として誇り、いざうまくいかなくなった時にはこの世の力に頼ってしまうイスラエルの人々と同じように、私たちは愚かさをもっています。 それでも神はこのような私たちを憐れんで、私たちにふさわしいものを置いて、それに対する応答、信仰の「決断」を待っておられるのです。 様々な私たちの小さな「決断」の積み重ねが、神によって引き起こされているのです。 私たちの人生は、神が用意してくださっている道のりに、私たちが何らかの応えをもって選びとっている厳粛な道のりです。 「神の準備」と「神の呼びかけに対する私たちの応答」から織りなす道のりです。 そこには、神の深い憐れみと強い願いがある。 神が準備しておられる命の世界があるのです。 それがどのようなものであったとしても、信仰という「決断」をもって喜んで応えて扉を開けるのです。 この私たちの「決断」は一回だけのものではありません。 この世にある限り、日々の「決断」の繰り返しです。 イエスはそのことを、「わたしに留まりなさい。 わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。 わたしの父である神は農夫である。 わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」と言われます。
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