牧師館より 2014. 2. 2
# 園長として、一年間、子どもたちを見続けて参りました。 子どもたちがお休みの時の幼稚園ほど、さびしいものはありません。 子どもたちの歓声と笑顔が運ばれてくる喜びは、何ものにも替えられません。 第三期もあと一カ月ほどとなり、30名の園児たちが巣立って行こうとしています。 これだけ自信をもった姿で、その日を迎えようとしている成長した子供たちを見ることは喜ばしくもあり、少し寂しさも感じるのです。 話しかけることすらできなかった子どもが、表情豊かに語りかける。 少し我慢をして、聞くこと、お友達に合わせることを覚える。 たとえ小さくとも、人格と人格のぶつかり合いの中から、何を感じ取っている。 幼くして、新しく生まれ変わっていっているようにも感じるのです。
しかし、一番の喜びは、その幼い子どもたちを取り巻く、目に見えない親子に代表される関わりや触れ合いです。 それぞれ違った環境の中にも、その関わり合いの中に置かれ育まれている。 人が関わり続けることの大切さを、心から知らされました。 だれかに知られている。 見つめられている。 愛されている。 気に留められている。 人は年齢に関係なく、このことによって力を与えられ、生かされている。 その体験を、この一年の間に知らされたことでした。 神は、もれなくこのひとりひとりの魂に向けて、探して、語りかけて、招いてくださっている。 この神との交わりの現実こそが、神の国の到来であることを知ったことでした。
(牧師 村上悦二)#
牧師館より 2014. 1. 26
# この欄に、次々と「私の証し」が掲載されるようになりました。 第五の主日礼拝のなかで語られる「証し」とはまた異なり、喜びを分かち合う場が増えて感謝です。 それぞれに主イエスが出会ってくださっていることがよく分かります。 よく読んでみますと、それぞれの方が与えられた生活の中にある弱さや貧しさや乏しさを語っておられるのです。 不思議と、その弱さや貧しさや乏しさのうえに、主イエスが現れてくださっているということです。
逆に考えてみますと、この私たちが嘆いている筈のこの弱さや貧しさや乏しさこそが、主イエスの現れ出る証しの場になっているのではないでしょうか。 イエスが12人の弟子たちをお遣わしになる時に言われました。 「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる。 総督や王の前に引き出される。 しかし、あなたがたは彼らに証しすることになる。」 「何をどう言おうかと心配してはならない。 そのときには、言うべきことが教えられる。 話すのは、あなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」とおっしゃっています。 私たちに、この弱さや貧しさや乏しさを知らされていること、これが私たちに与えられた恵みであります。 「困難な時にこそ証しすることになる」と言われる主イエスに、感謝して、喜んで、従って参りたいと願います。 (牧師 村上悦二)#
「私の証し」
# 私は、教会に入ってから、祈りの機会をもつようになりました。 それまでは声に出して「祈る」ということをしたことはありませんでした。 なぜなら、自分のために祈るということは、初めのうちはわざとらしく感じたし、照れ臭くてどうにもなりませんでした。 ある日、誰かが、教会の約束の中に、「個人的な祈りと、家族の礼拝に努め・・・」という言葉があることを教えてくれました。 そこで、自分にある「不安」を口に出してみることにしたのです。 持病、家族、仕事など、内容はその時その時で様々です。 衝動買
いしてしまって後悔したことや、飲み過ぎてしまい体調を崩してしまったことなど、神様に謝るような感じで、懺悔のような内容になることもありました。 声に出すことで自分の不安を、自分の弱さを自覚することができます。 「まあ、しょうがないな。」と切り
替えることができるのです。 「祈り」として口に出すことが、自分の持つ弱さや不安から逃げずに向かうことができるような気がします。 それが、どう対応したら良いのか考える機会になっていると思います。 #
「私の証し」
# 今年の私の聖句はフィリピの信徒への手紙4章6節です。 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 ゆれ動く心を静め何があっても主を信じ、なにか起きた時には自分のやれる事をその時にやれば良いと思って居るこの頃です。 30年前にこの教会へ初めて来た時に感じたあの暖か味は今でも忘れる事がありません。 はじめて聖書を手にした時の安心感、その時すでに私は神様に捕えられていたのだと思います。 バプテスマを受ける時に教会の姉妹からペテロの第一の手紙2章2節のみ言葉を頂きました。 「生まれたばかりの乳呑子の様に純粋なみ言葉の乳を慕い求めなさい。 それによって生長し救いを得る為です。 その姉妹とは今でも一緒に主を讃美し良い信仰の友としてお交りをさせて頂いて居ります。 今私は聖書を一日十章に挑戦して楽しんで居ります。とても力になり、又読み始めると夢中になって何も彼も忘れてしまいます。 聖書ほど面白い本はないといわれてますが本当にその通りです。 これからも兄弟姉妹と共に礼拝を守り、一つ一つの行事に感謝を持って望みたいと思って居ます。 神の義と神の国を求めて共に歩んで参りたいです。 新しい年も秋田バプテスト教会に主の栄光が豊かにありますように。 アーメン
[fblikesend]牧師館より 2014. 1. 5
# 去年の今頃は、教会や幼稚園の屋根の雪下ろしの作業をしてもらっていたように記憶しています。 今年は、雪が少ないですねと新年を迎えたところでした。 ところが、やはり本格的に吹雪いて参りました。 その中を、久しぶりに幼稚園の子どもたちが「お楽しみ会」に顔を出してくれました。 防寒服に身を固めて、元気に笑顔を見せてくれました。 幼いころから、この寒さに鍛えられている姿を見ます。 子どもたちだけではありません。 この私もまた、今年は慣れないながらも除雪機を駆使しています。 想像もつかなった姿です。 私たちは経験したものでなければ、どうしても分かりません。
しかし、私たちは様々な気象条件のなかで、また社会的な制約のなかで生活していくことの痛みをそれぞれに担っている筈です。 住んだことのないところでの痛みは分かりませんが、間違いなく、神はそれぞれに違った賜物を与えて支えてくださっています。 そして、それがひとつに結び合わされると聖書は言います。 イエスの御名のもとに、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、ひざまずくと言います。 今年一年もまた、この秋田の地が、私たちの国が、私たちの世界が、御名のもとに招かれた私たちがこの御名の旗のもとから離れることのないように切に祈ります。
(牧師 村上悦二)#
牧師館より 2014. 1. 1
# 2014年の新しい年を迎えました。
昨年は、「水が神殿の敷居の下から湧き上がって、流れていた。」 「その水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。」 この水の流れが見えているか。 その水の流れるほとりには、「多くの木がはえていた」。 それらは朽ちず、枯れず、その果実は絶えることがない。 「その果実は食用となり、葉は薬用となる」という神の語りかけによって出発しました。 私たちも、私たちの周りもまた、この水の流れに満たされるというみことばでした。 2013年という一年は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)という主のみことばにすがった一年でした。
新しい年は、エフェソの信徒に送られた手紙のなかにあるパウロの祈り(エフェソ3:14-21)によって出発しました。 「天と地にあるすべての家族」と教会にいる「すべての聖なる者たち」が「キリストの愛」に満たされるように、「教会により、また、キリスト・イエスによって、アーメン」という賛美です。 この一年もまた、この「キリストの愛」自らがつくり上げてくださる教会であるよう、心からすがって参りたいと願います。 (牧師 村上悦二)#
牧師館より 2013.12.15
# 幼稚園のクリスマスの子ども礼拝とクリスマスページェントを、木曜日の聖書の学び・祈り会のみなさんとご一緒にささげました。 天使さん役の一人の子がその日、胃腸炎のために急きょお休みで、その代役を女の子が代わって堂々としてくれました。 歌の歌詞から、セリフからすべて覚えなければなりません。 子どもたちにとっては、とても負担であったろうと思います。 一年経てば、ここまで自信をつけるのかと驚かされます。 幼い魂の心のスペースに、クリスマスの出来事が刻み込まれました。 いつか、どこかでこの心のスペースが開きますようにと心から祈らされます。 その時です。 そばによき導き手がいますように、よき祈り手がいますようにと願わざるを得ません。
今年のクリスマスは、どのように迎えておられるでしょうか。 そのことをクリスマスが、私たちに迫っています。 イエス様の誕生をどのように受け入れて、どのような表情を私たちは映し出すのでしょうか。 今年のクリスマスもまた、神が約束して、神が準備をして、神が成し遂げてくださいます。 私たちに訪れるクリスマス、神さまからのプレゼントを受け取って心から喜び賛美したいと願います。 (牧師 村上悦二)#
牧師館より 2013.12.8
# いきなり雪が積もりました。 昨年は、初めての秋田の冬でありましたので、雪かきで新雪の「サクッ」としたあの感触が忘れられませんでした。 近年まれに見る大雪であることもあまり感じず、雪かきに専念していました。 さすがに、4月になっても降ってくる雪には、固くなった根雪とともに閉口してしまいましたが、生まれて初めての体験でした。 何をどうしてよいのかまったく分からないままに突入した最初の冬でした。 しかし、今年は違います。 屋根から滑り落ちていてくる「どさっ」という雪の音。 びくともしない根雪。 二度も転んだパリンパリンとなった道路。 目の前が見えないくらいの猛吹雪。 家の前の道路で一日に7回も車が立ち往生し、後押しした経験。 そのお蔭で、秋田の冬に備えることを知らされました。
ガリラヤ湖で激しい嵐に出会った弟子たちの姿を思い起こします。 イエスが先に乗り込んだ舟に、そのイエスの後に従って乗り込んだ弟子たち。 イエスに従ったからこそ、嵐に揺れ動かされた弟子たちでした。 信仰をもって決断してイエスに従った弟子たちが、不安に取り囲まれたのでした。 その弟子たちに真の信頼を与え、整えて、イエスは「向こう岸」に連れて行かれたのです。 弟子たちには、必要な「嵐」であったのです。 備えて、整えてくださるのは、主イエスです。 私たちは、このイエスと共に同じ舟に乗っています。 (牧師 村上悦二)#
牧師館より 2013.11.24
# 先週の教会学校の「親子クラス」でのことでした。 礼拝メッセージの聖書箇所である「不正な管理人のたとえ」をお話した直後の出来事です。 小学校4年生の男の子の返事です。 「正しいものが、悪いものと一緒にあるように思った」 思わず、言葉を飲み込みました。 これから、どのようにしてこの幼い子にイエスの難しいたとえを、そして「不正にまみれた富」についてお話しようかと思っていた矢先のことでした。 小さな口をついて出た最初の言葉を聴いて、抱きしめたくなる衝動にかられました。 私たちが住んでいる世界は、悪いものが一緒にあるどころか、道義的にも到底ゆるされないことばかりであるかもしれません。 しかし、この幼い魂は、未だ見たこともない世界をそのように語りました。 そして、お母さんが「見えていないところに、大切なものがある」と続きました。 わずかな時間の中に、イエスが働いてくださっていることを実感したひとときでした。 幼いころからみことばに接し、親子で育んでいる有様に、驚きとともに喜びに満たされました。 一刻も早く、ひとりでも多くの幼い魂に、一軒でも多くの家庭に、親子でイエスに出会ってもらいたい。 そのような思いで、今年のクリスマス・イブに、「親と子のクリスマス」をもって迎えたいと願っています。 (牧師 村上悦二)#
[fblikesend]牧師館より 2013.11.10
# 先日、一枚のお葉書きをいただきました。 お葉書きですから、そんなにたくさんの文章ではありません。 しかし、そのわずかな言葉で大きな励ましをいただきました。 言葉は、不思議な力をもっています。 そうであることが分かっているのに、私たちは言葉を伝えることにためらうことがあります。 ついつい言葉を選んで、飲み込んでしまう。 大事なふれあいの時を、言葉を出すことを恐れて失ってしまうことがあります。
今、このふれあい、交わりを自ら断ち切る人が多いと聴きます。 無縁社会と呼ばれています。
いろいろな理由があって迷惑をかけたくない、煩わしいとひとりになっていく。 社会からも、職場からも、家族からも、地域社会からも縁を断っていく人がいるのです。 それが、大人だけの世界の話だと思っていたら、子どもの世界にも同じようなことが起きている。 その時です。 たった一枚の葉書きが届いたなら、ひと言の言葉がかけられたなら、その生涯が変わるかもしれない。 私たちの教会は、この地域社会に住んでいます。 この社会から切り離された、閉じこもった存在ではありません。 そのために大事な務めがあるように思います。 失われた者を追い求めている神に忠実に仕えることは、この地域社会にも忠実に仕えることです。 (牧師 村上悦二)#
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