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「四つの福音書が語るクリスマス」 ヨハネによる福音書20章30~31節

2022-11-27

 マタイでは、イエス・キリストの誕生の喜びのメッセージの前に、なぜか羅列された無味乾燥に思える系図がその冒頭に記されています。 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。 この短いみ言葉は単なる血筋や家柄を示したものではなく、旧約聖書の時代に連綿と伝えられてきた主なる神の約束、契約の成就者こそイエス・キリストであるという宣言です。 その名を見るだけで、波乱万丈に満ちた生々しい人たちのこの地上での格闘の営みが積み上げられた、まさに光と陰の織りなす人間の歴史です。 その人間の歴史の中に、私たちと同じからだを背負って降ってきてくださったお方がイエス・キリストである。 人となられた神の御子である。 「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)お方であるという宣言です。 マルコでは、イエス・キリストの誕生物語は全く記されていません。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。 この短いみ言葉こそ、預言されてきた救い主がついに訪れたという喜びの知らせなのです。 むしろ、イエス・キリストの生涯の中心は、人として私たちの初穂として受けられた受難と十字架の出来事です。 「福音の初め」とある「初め」という言葉は、最初というよりは根源、原点という意味です。 神のもとから切り離されて、私たち人間を救い出すために人となってくださったイエス・キリストこそが福音の源である、喜びの訪れであると宣言しているのです。 ルカでは、人間の歴史的出来事としてクリスマスは記されています。 世界の片隅で起こっただれも知らないような小さな出来事、地上での最初の場所が「飼い葉桶」であった。 家畜でさえもその飼い主を知り、飼い葉桶をも知っているにもかかわらず、ご自身の民はその主人を知らず、この世の権力者である皇帝アウグストゥスが課税するために行った住民登録の真っ只中に起こされた出来事であったと言うのです。 選ばれたイスラエルの民が、奇跡そのものである幼子の前でひざまずくことができなくなってしまっている。 目に見えるこの世の力に覆われてしまっている。 クリスマスはそのようなところに起こされた出来事であった。 「飼い葉桶のイエス・キリスト」を知り、そこにひざまずき主なる神の救いの業を見ることのできる人は幸いであると語っています。 ヨハネでは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)という一節をもって、クリスマスを私たちへの神の愛の語りかけとして語っています。 イエス・キリストは言葉となって私たちの心の内にまで宿ってくださったのです。 「言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4) この語りかけの「言葉」には「命」があったと言います。 「父の独り子としての栄光」は、「暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1:5)と言います。 ヨハネの集約の言葉が、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)と語っています。 ヨハネは、クリスマスの出来事を言葉と命と光によって語ります。 私たちはこの「すでに到来している神の恵み」を信じて受け取っていく。 それぞれに与えられた「信仰」と「生涯」と「命」によって、主なる神の愛とイエス・キリストの愛に触れて、来るべき神の国の完成とそこでの神の憩いのうちに宿ることを願いつつ、私たちの小さな生涯の愛の実をこの地上で結んでいただけるよう、ご一緒に最後まで歩ませていただきたいと願います。



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