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「眠りについた人たちの初穂」 コリントの信徒への手紙一15章20~28節 

2022-04-17

 「死」は必ず訪れます。 死んだらいったいどこにいくのか誰も分からいない。 答えられない「死」、到底受け入れることも理解することもできない「死」を、聖書は「復活」という出来事によって語ります。 「キリストの十字架と復活」は聖書の根幹です。 私たちが受け入れやすく、説明しやすく語ろうとするなら、神のみ心から離れてしまうでしょう。 パウロは、「キリストの十字架の福音を告げ知らされているにも関わらず、神のみ心を曲げて自分たちが受け入れやすく受け取っている」コリントの教会の人たちの姿に、「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」と心配するのです。 イエスは明確に、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、わたしを見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:38-40)と語っています。 パウロは、十二弟子のように直接イエスの復活の体を確かめたわけではないでしょう。 イエスの弟子たちを迫害するその途上で、復活されたイエスに呼びかけられたのです。 このお方に結ばれて新しく生かされ変えられていった実体験、復活の命に与かっている今現在の事実を、パウロは「復活されたイエスがわたしにも現れました。」と語るのです。 今まで何も見えていなかった古い自分が死んで、イエスから賜る新しい命に生かされているという喜びです。 もうすでに、聖書が語っている「来るべき世」の命に生かされている確信です。 「終わりの日」に「復活」という形で永遠の命が与えられると信じていたユダヤ人たちとは異なり、キリストの十字架の死と復活という歴史的事実によって、「終わりの日」に味わう神の国はもうすでに私たちのもとに訪れた。 この世に生きている間に現実体験が深くなり、将来の「復活」に与かる希望が益々確かなものとなったとパウロは語るのです。 この自身の信仰体験より、「聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のためにキリストが死んだ、三日目に復活し現れた、死者の中から復活し眠りについた人たちの初穂となられた」と短く二つの信仰を語るのです。 私たちの過ちの償いのため、私たちの罪の赦しと解放を語る「贖罪の信仰」です。 もうひとつは、私たちが死んで新しい命に生きるためにキリストが復活されたという「復活の信仰」です。 キリストが人間として死者の中から復活し、新しい時代の幕開けとなった。 神のもとを離れてしまった私たちが新しく生かされる道が開かれた。 キリストが神の子であるから復活したという、キリストだけに起こされた特別な出来事ではない。 キリストの「復活」こそが、今眠っているすべての人たちに起こる出来事となる。 そのことを「初穂となられました」と表現するのです。 キリストは後に続く私たちを予め代表する者となり、保証する者となった。 キリストの「復活」は、「終わりの日」の地上への到来であるとパウロは言うのです。 同時に、パウロはそれには順序があり、最初にキリスト、次にキリストに属する人たち、次に「世の終わり」がきて、すべてのものが神に引き渡され、すべての権威や勢力が支配されるようになり、最後の敵、「死」が支配される。 それは、「神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」 それが「救い」の最終目的である。 キリストが「復活」していなければ、私たちの「復活」はない。 肉体の死を越えたところに、神の救いの最終目的がある。 それがすでに定められていると言うのです。



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