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「自分を吟味する」 コリントの信徒への手紙二13章5~10節

2019-08-18

 パウロは自分自身のことを、赤裸々に告白しています。 「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出るとわたしは思われている。 手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言われている。 加えて、わたしには一つのとげが与えられている。 わたしを痛みつけるこのとげを離れ去らせてくださいと三度主に願い出たけれども叶わなかった。」 コリントの教会の人たちもまた、パウロについてこう言うのです。 「この教会を立ち上げたのは確かにパウロであるけれども、後から入ってきた指導者たちと比べてみても霊的な力が劣っているのではないか。 風采もあがらない。 『使徒』としての資格も与えられていない。 エルサレムの教会のために熱心に献金を募っているが、私腹を肥やすためなのではないか。」 そこまで言われても、パウロはコリントの教会のために祈り続けるのです。 危機的な状態にあったコリントの教会を立て直そうとするのです。 パウロは嘆いています。 「わたしは心配しています。 そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待しているような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではないというようなことにならないだろうか。 争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。 以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。 「涙の手紙」と言われているこの手紙の最後の章で、パウロはその締めくくりとして訴えるのです。 「厳しい態度をとらなくても済むように、自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と言うのです。 
パウロは、自分のとった行動を胸に当てて、静かに顧みることを求めているのでしょうか。 そうではなく、「信仰に生きているのかどうか、信仰のうちにあるのかどうか、自分を吟味しなさい。」とパウロは言っているのです。 「信仰に生きているのかどうか」と問われれば、私たちはすぐに自分自身の中に信仰を持っているのかどうか。 持っているとしたなら、それが深いものであるのかあるいは浅いものであるのかと問いたくなります。 「信仰」とは、私たちが所有したり、捨てたりできるものなのでしょうか。 自分の理解や納得や経験によって、持ったり、捨てたりするものではないように思います。 聖書は、「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 聖霊によって与えられるものです。」とはっきり語ります。 私たちが修行して、励んで、その結果勝ち取るものではありません。 神に呼びかけられ、その言葉に聴いて、それに応えて従って行こうとするところに、神によって悟らされるものであるように思います。 パウロはそれを、「イエス・キリストがあなたがたの内におられる、その状態を言う。 自分自身のうちにイエス・キリストが宿っていることが、あなたがたは分からないのですか。」と言うのです。 私たちがつかむ「信仰」ではなく、私たちの内がイエス・キリストに占領されて、捕らえられている、私たちに与えられる「信仰」ということでしょう。 ですから、自分自身の内を「吟味しなさい」と言うのです。 パウロはこのイエス・キリストというお方に従って行くなら、崩れ落ちてしまっているコリントの教会の群れもまた、造りかえられると本気で、諦めずに信じているのです。 これが十字架のイエスに従ったパウロの生き方です。 神が私たちの内にいますことを悟らせるのは、神の業です。しかし、悟らせてくださいと本気で、諦めないで祈るのは、私たちの仕事です。 この神の力を信じて従うなら、波風も立つでしょう。 痛みも苦しみも伴うでしょう。 しかし、そこに神の憐れみ、ご愛が注がれ、恵みに与るのです。



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