秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「キリストを宿していく」 ルカによる福音書1章26~38節

2016-12-25

 「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである」マリアに、天の使いが唐突に「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」と告げたのでした。 「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とあります。 他の聖書訳では、「ひどく胸騒ぎがして、思いめぐらしていた。」と書かれています。 マリアにとってまったく意味の分からない不可解なことです。 突然の思いがけない知らせです。 そうしたマリアの戸惑いに関係なく、天の使いは「マリア、恐れることはない。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げるのです。 ユダヤの社会では婚約したふたりは、法的には夫婦と同じです。 しかし、一緒に住むまでは結婚生活ではありません。 婚約中の身に、いきなり「自分の子を産む」と告げられても、いったいだれの子がこれから生まれるのか、マリアにとって身に覚えのないことです。 それどころか、当時のユダヤ社会で父親に与えられている子どもの名付けの権利すら奪われて、「イエス」という名前まで定められている。 「どうして、そんなことがありえましょうか。 わたしにはまだ、夫がありませんのに」と、マリアは自分のことで精いっぱいです。 この子がどのような者になるのか、その子の名前には「神は救いである」という特別な意味が込められているなど、まったく視野に入っていません。 マリアは、これからささやかな幸いの中に生きていこうとしていた矢先でした。 もし、そのようなことがこの身に起きたなら、婚約は解消されるかもしれない。 世間の中傷や誤解に向き合わなければならないかもしれない。 それよりも前に、どう考えても私の身に起きるはずがない、納得がいかない。 そう思ったからこそ、「どうして、そんなことがありえましょうか」、「どうして、そのようなことが、私にとって恵みなのでしょうか。」と神に反論したのです。 マリアの信仰が、自分の常識と葛藤しています。 このマリアの反論に神は応えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 神にできないことは何一つない。 それがあなたにとって恵みである。」と告げたのです。 
 私たちは、自分が納得したから信じているのでしょうか。 分からないから、神を信じていないのでしょうか。 マリアはその時、私たちと同じように神のみ心が分からなかったはずです。 そこに、神が「いつも共にいてくださる。 あなたに聖霊が降る。 神の力があなたを包む。」と語りかけてくださったその言葉を、自分に向けられた言葉として受け止めることができたのではないでしょうか。 その言葉は、今までマリアが大切にしてきたものを壊してしまうものであったかもしれない。 常識を破る、自分の理性を越えるものであったかもしれない。 しかし、マリアは、このみ言葉の前に自分を投げ出して、なぜ自分にとって恵みであるのか分からないまま、この神の意志に身を委ねる決断をしたのです。 その言葉が、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」という表明でした。 イエスは完成された人として、この世に遣わされたのではありません。 私たちと同じように、抵抗することのできない、ただ受けることによってしか成長することのできない弱い赤ちゃんとしてお生まれになったのです。 マリアはこの息子を宿して、養い育てていく、最初の証人として歩み始めたのです。 これは、マリアだけのお話でしょうか。 イエスの誕生を受け入れて、うちに宿して、育んでいく。 生涯の歩みを通して、このイエスの証人として歩んでいく。 この恵みがすべての人に与えられているのです。 パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。 イエス・キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と語っています。



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