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「天の国はその人たちのもの」  マタイによる福音書5章1~12節

2016-05-01

 イエスのもとに集まって来た人々は、この世の幸いから見離されたような人々、貧しく、弱く、無力な人々でした。 そのような群衆をよくご覧になって、その代表として、また、その群衆に遣わされていく弟子たちに、直接、語られたイエスのみ言葉。 ガリラヤで始められた宣教活動の初めに、「幸いである」という祝福の言葉をもって福音を語られたイエスのみ言葉。 それが、今日の聖書箇所のみ言葉でした。 イエスは、「幸いである」という人を、「心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、義のために迫害される人々」と、この世の道理では真逆の人びとのことを言います。 また、「柔和な人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々」には、そのことを貫き通すことには困難を極める、克服するには覚悟が要求されることが容易に分かります。 しかし、イエスは、そのような人々を「幸いである」と、新しい世界をお示しになりました。 最初に、「心の貧しい人々は、幸いである。 天の国はその人たちのものである。」と言われています。 イエスは、心を貧しくしなさいとか、豊かにしなさいと戒めておられるのではありません。 あなたがたの心の貧しさのゆえに、「幸いである」。 すでに心の貧しさを知っているので「幸いである」と、弟子たちに向けてその祝福を語っているのです。 「心の貧しい人々」とは、「霊の貧しい人々」、「霊において貧しい人々」とも訳すことができる言葉です。 人間には、神を求める「霊性」があると言われています。 大人も子ども例外なくです。 この神を求める「霊性」の貧しさを知らない人は、神を求めることも、神を感じることさえできません。 神を求めるという霊において、その貧しさが分からないからです。 しかし、神に依り頼む人は、益々、神を求める霊性が増し加えられます。 神のもとを離れてしまった本当の自分の姿に気づかされます。 神のもとを離れてしまう苦しみ、悲しみ、痛みを更に憶えます。 自分の中の奥深くに巣くう「罪」に敏感になります。 この自分の貧しさに気づいて、神のもとへ立ち帰った人々、あなたがたは神との交わりを回復したのである。 自分で自分を救うことなどできないと、その自分の貧しさを神の前に知ったのです。 ですから、「あなたがたは幸いである。 天の国はすでに、この私とともに来ている。 あなたがたのものである。」とイエスは言われたのです。 マルティン・ルターは、十戒の第一の戒め「わたしをおいて、ほかに神があってはならない」という戒めこそ、自分を誇らず、神の恵みによってのみ生きることを語る、「まことの貧しさ」であると言っています。
 神の豊かさは、私たちの貧しさのなかに働かれます。 ですから、イエスは貧しい人たちのところへ、悲しみ嘆いている人たちのところへ出かけて行って、共に歩まれたのです。 私たちのもっているちっぽけな、吹けば飛ぶようなはかない誇りにしがみついている時には、決して経験することのできない大きな豊かさを知ることができる。 だから「あなたがたは幸いである」と、祝福してくださるのです。 この世とは、まったく逆の価値観をもって、イエスは「天の国はその人たちのものである」と宣言されました。 私たちは、この語りかけておられるお方のみ言葉を受け入れることもできるし、否定することもできます。 私たちは、信じるようにとこのお方に招かれています。 あなたがたは信じることもできるし、自分たちの貧しさを凌駕する神の豊かさを体験することができる。 だから、「喜びなさい。 大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。」と言われたのです。 「自分を空しくして、受け取りなさい。 喜びなさい。 大いに喜びなさい。大きな恵みがある。」と言われたのです。 私たちは、イエスの口から直接語られたこのみ言葉を、信じる者の群れでありたいと願います。



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