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「みこころの天になるごとく」  ルカによる福音書22章39~46節

2016-04-24

 十二弟子のうちのひとり、イスカリオテのユダが裏切って、イエスをまさに捕らえるその直前に、イエスが最後に弟子たちに教えられたことが「祈ること」でした。 その祈りが、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りでした。 
 地上での最後の場面にもかかわらず、ルカは「いつものように」、「いつもの場所」に行かれたと言います。 その場所はオリーブ山でした。 イエスは、そこを祈りの場所としておられました。 当然、その場所をユダは熟知した場所であったでしょう。 まるで、ユダが大祭司の手下を連れてやってくるのを、イエスは待っておられるかのようです。 そのような時に、イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたのです。 そして、弟子たちと離れて祈り始められました。 ご自身の「祈りの姿」を見せるため、ご自身の「祈りの言葉」を聞かせるためでした。 剣を置いて「祈りなさい」と弟子たちに言われただけでなく、父なる神を仰ぐ「祈りの姿」を見せて、赤裸々に語られる「祈りの言葉」を敢えて聞かされたのです。 イエスの「祈りの姿」は、ひざまずいて祈られています。 「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られて」います。 いつものように、いつもの場所で祈る時と場所をもっておられます。 「汗が血の滴るように地面に落ちる」までに祈っておられます。 「祈りの言葉」の内容は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」というものでした。 イエスが「取りのけてください」と切に願うその「杯」こそ、イエスにつきつけられたままの「杯」です。 何度イエスが祈っても、答えの返って来ない「杯」です。 神ご自身が、愛するみ子の願いを聞き入れることのできない、イエスと共に苦しんでおられる父なる神の沈黙です。 ですから、「汗が血の滴るように地面に落ちる」までに祈られたのです。 そしてついに、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りに達したのです。 そこには、父なる神には間違いがないというイエスの「信頼」があります。 「御心のままに」というイエスの「服従」があります。 父なる神は、私たちの「信頼」と「服従」によってご自身の御心を果たされます。 その御心は、必ず私たちのうえに、私たちを通して現わされます。 この「祈りの姿」と「祈りの言葉」を、これからこの世を去って父のもとに帰るにあたって、遺される弟子たちに伝えたのです。 この最後の祈りを終えて、ユダの裏切りに身を委ねられたのです。 これが、祈りの中の祈りと言われる、ゲッセマネの祈りです。 御心が分からない苦しみが、私たちにはあります。 答えが与えられないから、苦しいのです。 確信の祈りに至らされたイエスに、父なる神は「力づけた」とあります。 神はイエスに、その「杯」を取りのけたのでも、過ぎ去らせたのでもありません。 この「杯」を乗り越えることのできるようにと、力を与えてくださったのです。 祈り終えたイエスは立ち上がっておられます。 ですから、イエスは相も変わらず「眠り込んでいる弟子たち」に、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と重ねて言われたのでした。 



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