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「幸いである貧しい人々」 ルカによる福音書6章20~26節

2015-07-26

 イエス様は祈るために山に登られました。 とても大事な祈り、十二人の弟子を選ぶための夜通しの祈りでした。 父なる神のみこころを尋ね求め、ついに祈り終えて、翌朝、その十二人の弟子たちを呼び集められたのです。 彼らと共に山から降りて来て、平らな所にお立ちになった時、イエスは弟子たちを見て「貧しい人々は幸いである」と言われたのでした。 病気を癒していただくために、汚れた霊に悩まされ不安や苦しみから解放されるために訪れた人々で埋め尽くされたところでした。 聖書は、そこを「平らな所」と言います。 病いや痛み、不安や苦しみが渦巻いているこの世の現実の場で、選ばれた弟子たちを呼び寄せ、イエスは「貧しい人々は幸いである」と語られたのです。 この厳しい現実を、私たちがどのようにして生きていくのか、またイエスの名のゆえにこれから虐げられたとしても、どのような希望をもって私たちは歩んでいくのか。 イエスは、ひと言で語られたのです。 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人はきれいになり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 この良き知らせと癒しはすでに訪れている。 最も「祝福」から遠い存在と思われた人たちにこそ、「祝福」を与えるために、私は訪れている。 そのことを、選ばれた弟子たちの前でイエスは語られたのです。 
 イエスの言う「貧しい人々」とは、預言者イザヤが語っていた「抑圧されて、自らどうすることもできない、希望を取り上げられた人たち、起こりようがない奇跡が実現する以外には立ち直ることができない人たち」であったのでしょう。 その「貧しい人々、今、飢えている人々、泣いている人々、主イエスのために憎まれている人々は幸いである。 しかし、富んでいる人々、今、満腹している人々、笑っている人々、すべてにおいて褒められている人々はわざわいである」と言うのです。 この世の尺度で言えば正反対です。 しかし、イエスは、当時の社会の状態を憐れんで、今の状態と将来の状態は逆転する。 自分には何ひとつ頼るべきものがない、この状態が逆転する以外に救われるすべがないとする人たち、そのような人たちが幸いであると言っているのです。 私たちには、自分で自分を救う力などありません。 神の憐れみとそのみこころによって生きているだけです。 そのことに気づかされた者こそ、自分の「貧しさ」を知った者ではないでしょうか。 今の私たちの社会ではどうでしょうか。 むしろ、自分を頼り、人の評価に頼り、身につけているものにしがみつき、「貧しい人」になることができない者なのではないでしょうか。 自分の本当の貧しさに気づいていないのでしょう。そのために十字架の姿が見えていないのです。 イエスは、すべての罪のために、徹底的にご自身を打ち砕かれたお方でした。 すべてのものを奪われたお方でした。 枕するところさえもなかったお方でした。 その極限の貧しさのうえに、父なる神はイエスを聖霊で満たし、よみがえりの命を与え、私たちが生き返る新しい道を切り開いてくださったのです。 イエスは、その「貧しさ」を自ら進んで受け取った祝福として、「逆転」と「よみがえり」が与えられました。 そのお方に結ばれようとしている人たち、「あなたがたは幸いである。 神の国がすでに与えられている。 逆転とよみがえりの命はあなたがたのものである。」 そのように聞こえてはこないでしょうか。 イエスは、「神の国があなたがたのものである」から幸いである。 その貧しさも飢えも、神の豊かさによって満たされるから幸いであると言っておられるのです。 私たちは、神の前に豊かになるために招かれています。 偽りの「豊かさ」から本当の「貧しさ」に立ち帰りなさい、主イエスの十字架と復活の豊かさで満たすと約束しておられるのです。 



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