秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「待ち望む三日目の朝」   ヨハネによる福音書19章31~42節

2014-04-13

 主イエスが「成し遂げられた」と語ったその最後の時、すべてが終わったと言われた時に、今朝、私たちは立たされています。 その時に、イエスは父なる神のみこころに従って「人間の死」を受け入れられたと同時に、神のもとを離れてしまった私たちの身代わりに父なる神から捨てられるという「本当の死」を受け入れられました。 主イエスが黙って受け入れられたこの「葬りの一日」、死んで葬られた日を覚えます。 その日は、準備の日でした。 翌日は、特別な安息日でした。 十字架に架けられた主イエスの死んだ体は、人々にとって汚れたものでした。 確実に死んでいくように、また息を吹き返してくることのないように足を折って歩けなくする。 とどめを刺すかのように「槍でわき腹を刺し通す」。 イエスが死んで、来たるべき三日目の朝を迎えるまでの、この間の一日を聖書は「あなたがたが信じるためであった。 旧約聖書の言葉が実現するためであった。 自分たちが槍で突き刺した者を見るためであった」と告白しています。 律法では、「過越しの小羊の骨は折ってはならない」と言う。 イスラエルの民の罪のあがないとしてささげられた「いけにえの小羊」の骨を折ってはならないと言う。 イエスの十字架は、過越しの祭りの準備の日に起きた出来事でした。 主イエスは、「過越しの祭りの小羊として、十字架に架けられた」。 神のもとから離れてしまった私たちを取り戻すために、あがないとして神の真の裁きのためにささげられた主イエスであったと聖書は言っているのです。 この主イエスの死んで葬られた日、「葬りの日」が私たちにとって大切なのです。 私たちが受けたバプテスマは、この主イエスの葬りとともに葬られたという事実を体験することでした。 人間の可能性などまったくなくなってしまった日、「終わりの日」、その時こそ父なる神だけが働く。 神のみことばだけが聞こえてくる。 「最後の絶望の日」に、生きた神の働きが分かるようになる。 この終わりの日の体験を通して、新しい神の働きがそこから起こってくる。 パウロが言っています。 「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」。 死という終わりを経験して、新しい始まりに生きていく。 すべてが終わらなければ、神の業は始まらなかったのです。 私たちの迎える三日目の朝こそ、この葬りの日、終りの日を味わいながら、静かに待ち望んだ新しい世界が始まった日なのです。 この葬りの日に用いられた二人の人物がいます。 アリマタヤのヨセフとニコデモです。 どちらも、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」人物です。 心の中で思っていることと、やっていることがかけ離れていた人物です。 その人物を神は召し出して、主イエスの最後の日の葬りのために用いたのです。 人間の可能性がまったくなくなったその最後を、一緒に体験させ新しい神の業の始まりに備えるためにこの二人を用いられた、神の事実を見逃すわけにはいきません。 二人は、この葬りという終わりが新しく始まることであったという十字架の言葉を、イエスの復活の事実によって知らされたことでしょう。



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