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「造られたぶどう園」 マルコによる福音書12章1~12節

2023-02-26

 直前の段落では、イエスがエルサレムに入られて最初に行かれた場所がエルサレム神殿であったことが記されています。 イエスがそこで目の当たりにした光景は、「神を礼拝する場所、祈りの家」であるはずの神殿が、「強盗の巣」に成り下がってしまっているものでした。 この神殿から商人たちを追い出してしまうというイエスの振る舞いが物議を醸し出し、「祭司長、律法学者、長老たち」が「何の権威で、このようなことをしているのか。 だれが、そうする権威を与えたのか。」と迫ってきたと言います。 その際に、「ぶどう園のたとえ」をもってイエスが応じられたのがこの聖書箇所です。
 この主人である神が完備された至れり尽くせりの「ぶどう園」を任されたのが「農夫たち」でした。 神の大きな期待を受け、注がれた神のご愛と恵みに応える存在でした。 今、イエスに「何の権威で、だれからの権威で」と迫る「祭司長、律法学者、長老たち」のことでしょう。 収穫を迎える時、「ぶどう園」の決算を迎える時がきた。 主人は、収穫を受け取るために「農夫たち」のところに「僕たち」を送った。 ところが、「農夫たち」は「僕たち」を捕らえ、袋叩きにし、何も持たせず送り返したと言います。 それでも主人は「僕たち」を送り続けたが、侮辱され殺された。 それでも諦めない主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と望みを失わず、最後に「愛する息子」を送り込んだ。 「農夫たち」は、「これは跡取りだ。 さあ、殺してしまおう。 そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と言い、その息子を捕らえ、殺し、「ぶどう園」の外に放り出したと言います。 「ぶどう園」は、「農夫たち」に期待し、その収穫を共に喜ぶために完備された場所であったはずです。 自分たちを「ぶどう園」の主人にしようとする「農夫たち」のために、「僕たち」を送り続け、忍耐をもって主人は語り続けたのです。 最後まで、「ぶどう園」で収穫の実を結ぶように期待して待ったのです。 この「たとえ」は、神と私たち人間との関係を伝えています。 「ぶどう園」がだれによって造られたのか、だれの権威によって支えられているのかを、「何の権威で、だれからそうする権威を与えられたのか」と迫る「祭司長、律法学者、長老たち」に語りかけます。 神が準備し作り出したこの世界で、ついに、神が愛する独り子イエス・キリストを十字架に架けて殺し、神を拒み、神と徹底的に対立し最も深い罪を犯してしまう。 父なる神に遣わされたこの私自身が、父なる神の権威を授けられて、あなたがたに殺され、拒まれ、外に放り出されるために遣わされた「愛する息子」であると、「たとえ」を用いて彼らの問いに応えたのではないでしょうか。 「僕たち」の姿、「愛する息子」の姿を通して、備えられた「ぶどう園」をもう一度見つめ直して欲しい。 神ご自身の民として取り戻そうとされておられるのです。 問題は「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。 戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」という「裁きの言葉」と受け止められかねないイエスの発言です。 イエスはこの「たとえ」を、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。 これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」と締めくくるのです。 主人が、戻って来て、愛する息子を殺した「農夫たち」を裁いて、殺して、主人としての権威を回復させようとしたのではありません。 自身の息子を十字架に架けるということを通して示された神の愛によってです。 そのことに気づいて悔い改めたマルコが、このイエスが語られた「たとえ」の最後に差し込み、十字架に架けられ「捨てられた石」となったイエス・キリストを、神が「隅の親石」、あらゆる支配の力を足もとに置かれた「救いの礎」とされたと、「神の祝福の約束の言葉」として受け止めたのでしょう。



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