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「ガリラヤからの光と福音」 マルコによる福音書1章12~15節 

2022-08-21

 ヨルダン川でイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたのは、望みを失い「荒れ野」で漂う人々とともに歩むというイエスの決断でした。 父なる神がみ心に従おうとするそのイエスを喜び、神の子であると明らかに宣言されたのでした。 民衆や洗礼者ヨハネが期待したメシアとは、自分たちを悩ます者を滅ぼし、その支配から解放してくれる裁き主でした。 一向に立ち上がらないイエスに洗礼者ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と疑い尋ねています。 このヨハネの疑いにイエスは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と答え、栄光に輝くメシアではなく、貧しい人、弱い人、捕らわれ人、嘆いている人とともに歩む「苦難の僕」として歩むメシアを自らの姿であるとヨハネに示されたのです。 その洗礼者ヨハネが、領主ヘロデを批判し捕らえられたことをきっかけに、イエスは「ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え始めた」とマルコは言うのです。 ところが、神に託された福音を宣べ伝える前に、「霊によって荒れ野に送り出された。 40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」と言います。 聖書の言う「荒れ野」とは、試練の場です。 却って、神と対面し神からの呼びかけを聴く場です。 「40日間」という数字も、試練と苦難の時を示しています。 ノアの40日40夜の大洪水、エジプトから約束の地に向けて歩んだイスラエルの民の荒れ野の40年の歩みも、モーセの40日40夜のシナイ山での断食もすべてそうです。 「サタン」という存在も、神と人間の結びつきを十二分に知る者として度々聖書に登場します。 この「サタン」との戦いに、私たちもまた苦しみ悩むのです。 しかし、神との結びつきのない者、神の存在すら受け入れようとしない者にとっては、この神のもとから引き離そうとする「サタン」との戦いは起こらないはずです。 神のもとから離れてしまっていることに気づく者だけが味わう苦しみなのです。 他の福音書が詳しく記しているこの誘惑の内容は、「神の子なら、石をパンに変えることができるだろう。 高い所を飛び降りても、神が助けるだろう。 この世の王になれるだろう。」という、「苦難の僕」の姿を捨てて、「栄光の姿」をもってイエスを歩ませようとする巧妙な誘惑でした。 聖霊によるバプテスマを受け、神の子とせられ、聖霊に導かれこの世の戦いを体験されたイエスが、「ガリラヤに戻った」のではなく「ガリラヤへ行った」と言います。 ガリラヤのナザレというご自身の故郷という平穏な場所に戻ったのではない。 領主ヘロデがその権力の維持のためには投獄も処刑も辞さない危険な場所です。 ユダヤ教指導者たちがイエスを「律法を汚す者」として命を狙っている危険な時です。 イエスは神の国を宣べ伝える場所として、神殿とユダヤ教の体制に包まれた都エルサレムではなく、「異邦人のガリラヤ」へ赴いたのです。 領主ヘロデと対峙するためでも、ユダヤ教指導者たちを避けるためでもなく、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:16-17)という預言が果たされるよう「異邦人のガリラヤに漂う人たち」に近づいて行かれたのです。 そこで語られた言葉が、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」というみ言葉でした。 神が予め定めておられた時に、神の側からしか近づいてくることのできない、「恵み」としてしか与えられるものではない「神の国」に私たちが招かれた。 ご自身がおられるところに、向きを変えて戻ってきなさいと語っているのです。 私たちもまたイエスのおられるところ、ガリラヤに赴きイエスととともに歩むのです。



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