秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「主よ、来て、御覧ください」 ヨハネによる福音書11章28~37節 

2021-08-29

 マルタとマリアの二人の姉妹の「祈り」と、その兄弟ラザロの病気と死という出来事が描かれています。 イエスは、「マルタとマリアとラザロを愛しておられた」と言います。 二人の姉妹はその場にいないイエスに、人をやって病気のラザロの危機を伝え、その回復をイエスに託すのです。 その訴えにイエスは、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 私たち神の子が栄光を受けるためである。」と語り、その場を二日間動くことはなかったと言います。 これから起こる出来事に、必ず父なる神のみ心が働く確信があったのでしょう。 それから時が満ちて、「わたしたちの友ラザロが眠っている。 彼を起こしに行こう。」と弟子たちに呼びかけられたのです。 イエスは時が満ちるまで、ベタニアの村はずれでじっと待っています。 マルタは、イエスが村に来られたことを聞きつけて迎えに行きます。 イエスに会うと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言います。 これにイエスは、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と言うのです。 このイエスの言葉を受けて、マルタはマリアにもイエスのもとに行くことを促します。 家の中にじっと座って悲しんでいたマリアは、すぐに立ち上がりイエスのもとに出かけて行きます。 イエスのおられるところに来てイエスを見るなり、マリアは足もとにひれ伏し、マルタと同じように「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 愛する兄弟ラザロが死んで、もうすでに四日が経ち、ラザロは墓に葬られていたのです。 二人の姉妹の悲しみを慰めるためにやって来ていた多くのユダヤ人たちが、マリアが急に立ち上がって家を出て行く姿を見て、てっきり墓に泣きに行くのだろうと心配して、彼女の後を追いかけてくるほどの状況でした。 
 そのような最中での二人の姉妹とイエスの再会の場面です。 泣き崩れるマリアの姿、心配してその後を追ってきた多くのユダヤ人たちが泣いているのをイエスはご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮して涙を流された。」と言います。 この涙は、私たちと同じ肉体を背負った者がもつ感情に左右され、「心を痛め、悲しんで、動揺して」流されたものでしょう。 それと同時に、何かを決意したかのようなニュアンスを込めています。 これから迎える、父なる神に見捨てられるという悲しみとその裁きを私たちに替わって受けなければならない十字架の苦しみ、そこから新しい命へとつくり変えられていく決意を込めて涙を流されておられるのではないでしょうか。 イエスが涙を流されたのは、「どこに葬ったのか」と問うた時に「主よ、来て、御覧ください」と二人の姉妹が祈った時のことです。 二人の姉妹は、ラザロが葬られていた墓の方ではなく、イエスがおられる所に立ち上がって駆けつけたのです。 そのお姿を見て足もとにひれ伏して訴えたのです。 どうすることもできないと分かっていても、イエスの憐れみにすがろうとする二人の「祈り」は変わらなかったのです。 「助けてください。 こうしてください。」という願いではなく、「主よ、わたしのところに来てください。」 そして、「その有様をご覧になってください。」という短い祈りです。 私たちは死んだ者が入る墓ではなく、主とともに生きていくところにすかさず立ち上がって、ありのままの姿をもって出かけて行かなければならない。 「来て、ご覧ください」と訴え、祈り委ね、主イエスを受け入れるのです。 そこに、父なる神が足を踏み入れて働いてくださるのです。 イエスは、「このことを信じるか」と私たちにおっしゃっておられます。



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