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「ガリラヤ湖畔の野原での祝福」 ヨハネによる福音書6章1~13節 

2021-04-25

 有名な「五千人に食べ物を与える」という、すべての福音書に記されている聖書箇所です。 よほど、弟子たちの心に刻まれた出来事であったのでしょう。 その場所は、イエスがガリラヤ湖畔の山に登り、弟子たちとともにお座りになった、草がたくさん生えていた野原であったと言います。 のどかな風景が目に浮かびます。 イエスを仰いで、弟子たちが、群衆がそこで安らぎをもってイエスの言葉に耳を傾けていたのでしょう。 大勢の群衆が自分たちの方へ近づいてくるのをイエスはご覧になって、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。 イエスはこれからなさろうとしていることを分かっておられて、弟子のフィリポを試されたと言います。 その群衆の数は、男たちだけで五千人であったと言いますから、フィリポは常識通り、「めいめいが少しずつ食べるだけでも相当なパンが必要です。 この数の人を養うだけのパンはありません。」と答えるのが精いっぱいであったでしょう。 弟子のアンデレが思わず、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。 けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と叫びます。 大麦のパンとは、粗末な食べ物のしるしでしょう。 五つのパンと二匹の魚も、少ない数のしるしでしょう。 少年という姿もまた、小さな存在ということでしょう。 しかし、イエスはそのパンを座っている群衆に分け与え、魚も同じように欲しいだけ分け与えられた。 そして、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われたと言います。 そこで考えられないことが起きたのです。 群衆は満腹となった。 食べ残ったパンの屑を集めると、十二のかごがいっぱいになったと言います。 群衆は、イエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったと記されています。
 この出来事が記された中に、ふたつの文章が心に残ります。 ひとつは、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいた」という文章と、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」という文章です。 この出来事とエルサレムで国を挙げて執り行われる過越祭とどのような関係があるのだろうか。 また、私たちが主の晩餐の際に行われているようなイエスの振る舞いが、なぜここに記されているのでしょうか。 神はモーセに、エジプト全土にひとつの災いをくだし滅ぼすと言われました。 エジプトにあるものすべてを区別なく撃つと言われました。 そうならないように、神はモーセにイスラエルの人々の家の柱と鴨居に小羊の血を塗るようにと言われました。 イスラエルの家に塗られた血がしるしとなって、この災いがその家を過越し、及ばないと約束されたのです。 神がすべてのものを滅ぼそうとされたが、そうならないようにと柱と鴨居に小羊の血を塗って「辛うじて救い出された」喜びを記念して、エルサレムで人々が祝っているのが過越祭です。 群衆は、イエスのしるしを見たからこの野原に近づいてきたのです。 その群衆を前にして、今、エルサレムの立派な神殿、整備された儀式もないけれども、このガリラヤ湖畔ののどかな野原で大勢の群衆に囲まれて、イエスはこの過越の祭りをともに祝うことを喜びとされたのではないでしょうか。 本来滅ぼされても仕方のない私たちが、イエスの贖いの十字架の血によって神の災いがここにいる群衆の上にも通り過ごされていくことを、「感謝の祈りを唱え」喜びをともにされたのではないでしょうか。 何もない、エルサレムから遠く離れたこの「草がたくさん生えていた野原」で、何千年も前の出来事と同じように、今、ここに訪れようとしているこの喜びをイエスは噛みしめておられるのではないでしょうか。 私たちもまた、イエスに出会って、そのご愛に触れて、赦されることのない過ちが赦されて、そのご愛に満たされる神の国の一員であるのです。



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