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「行って、あなたも同じように」 ルカによる福音書10章25~37節

2020-07-19

 ある律法の専門家が、イエスを試そうとして質問をしています。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスはこの悪意に、「律法にはなんと書いてあるか。」と切り返します。 彼は即座に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。 また、隣人を自分のように愛しなさい。」と書いてあると答えます。 満点の回答であったのでしょう。 イエスは、「正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば、あなたの言う永遠の命が得られる。」と言われたのです。 律法の専門家の言葉には、そんなことはよく分かっているという響きがあります。 しかし、イエスは、神を愛することが第一であり、隣人を愛することは第二であるとその順序を語っておられるのです。(マタイ22:37-40) 聖書では、「愛する」という言葉を「エロース」という言葉と「アガペー」という言葉で使い分けています。 「エロース」は自分本位の愛です。 自分中心の求める愛です。 自分を満たすための条件付きの愛です。 「アガペー」は、相手本位の愛、自分を犠牲にしてまでも注ぎ続ける与える愛です。 愛するに値しない者をも愛する無条件の神の愛です。 この神の愛に触れるには、自分自身の姿を見つめ直し、自分の愛の貧しさに気づかされ、神の憐れみにすがる祈りがなければ味わうことのできない愛です。 神のもとからしか出てこない、ただ恵みによって神に与えられるものです。 マザーテレサは、「神は愛であり、愛は神からくるのですから、愛には限界がありません。 ですから、神の愛のうちに本当に身を置きさえすれば、神の愛は尽きることがありません。 でも肝心なのは、愛することです。 傷つくまで与え尽くすことです。 どれだけのことをしたかではなく、あなたの行いに神から与えられた愛を込めたかなのです。」と言います。 
 イエスに「この神から与えられた愛を宿しているか」と迫られた律法の専門家は、「では、あなたが言われるわたしの隣人とはだれのことですか」と応戦します。 自分の方から愛さなければならない「隣人」を見ようとする律法の専門家に、すかさず語ったのが「善いサマリア人のたとえ」なのです。 「傷ついた人を見ると、道の向こう側を通って行った」祭司とレビ人と、「その人を見て憐れに思った」サマリア人に分けられています。 その人を助けたなら、自分はどうなるのかと自分の立場に立っている人と、もし自分が助けなかったなら、この人はどうなるのかと相手の立場に立っている人に分けられています。 この「憐れみ」の言葉には、「はらわたがちぎれるほどの痛み」という激しさをもっています。 この憐れみが、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱させるのです。 デナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、「この人を介抱してください。 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言わせるのです。 ユダヤ人は、その血筋からサマリア人を見下し、嫌い、一切の交わりをしなかったと言います。 イエスはこのたとえを用いて、だれが助けを求めている人を助けたのか、愛したのかと問うているのです。 近寄って来て、傷を癒し、泊まるところまで連れて行って、解放するように頼んだ、蔑まれ見下されていたサマリア人こそ、私たちに替わって十字架に架かってくださったイエス・キリストです。 叫んでも、訴えても、道の向こう側を通って行く者が大半であるようなところにおいても、神の救いの恵みが注がれている、あなたがたは神に愛されている。 神の国はすでに訪れていると、このたとえを用いてイエスは語っておられるのです。 この神の恵みと、無条件の神の愛を喜んで感謝して受けなさい。 「行って、あなたも同じようにしなさい」と送り出しておられるのです。



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