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「新しい礼拝堂という奇跡」 歴代誌下6章17~21節

2020-03-08

 ソロモンが長年の神の約束でもあった、イスラエルの民の念願でもあったエルサレム神殿を完成させて、神にその祝福を感謝しささげた「祈り」がこの歴代誌下6章に綴られています。 その社会的背景には、戦争に負けたこともある。 雨が降らなくなり、飢饉が起きるという自然災害も起きている。 疫病が流行って、様々な難病が拡がっている。 また、いなごやばったが大量発生し、様々な災いが起きている。 そのような状況の中で、イスラエルの大群衆を前にして、神殿の完成を感謝しその神殿を神にささげるという「献堂の祈り」とでも言うべき、神を仰いで祈りをささげる「ソロモンの信仰」に触れたいと願います。 
 イスラエルの歴史にとって、イエスが「野の花は、働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。」(マタイ6:29)と語られたほど、ソロモンが王として在位していた時ほど繁栄していた時はなかったのではないでしょうか。 この壮大な神殿が、次第に聖地化されていきます。 それでもソロモンは、すべては神が父ダビデに約束されたとおり成し遂げてくださったことだと群衆の前で祈るのです。 人の手を借りて造られた建物の姿を見るのではなく、その建物を強い意志と計画をもって成し遂げられた神の業を見るのです。 「わたしの父ダビデになさった約束を守り、その口から出た神の約束のみ言葉が、今日このとおり成し遂げられました。 これからもその約束が確かに実現されますように。」と祈り、その恵みの業に圧倒され大群衆の前で賛美するのです。 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は虚しい。」(詩編127:1)と歌われているとおりです。 「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)とパウロが語っているとおりです。 この「ソロモンの祈り」は、イスラエルの大群衆を前にした神殿の祭壇の前でささげる「祈り」でした。 いけにえをささげる、いけにえを焼き尽くす祭壇での「祈り」でした。 つまり、イスラエルの民の罪の赦しを神の前に願う犠牲をささげる「祈り」であったのです。 新約聖書の時代に生きる私たちにとっては、イエス・キリストの十字架の前に立って、自らの恥ずかしい姿を差し出して見てもらって、その過ちを裁いてもらって赦していただこうと祈る「祈り」と同じです。 ですからソロモンは、「主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕がみ前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。 昼も夜もこの神殿に、御目を注いでください。 ここは、あなたがみ名を置くと仰せになったところです。 あなたのお住まいである天から耳を傾け聞き届けて、わたしたちの罪を赦してください。」と、群衆を代表して祈っているのです。 戦いに敗れたときも、自然災害に襲われた時も、疫病に悩まされたときも、どんな災いも病苦もすべてはあなたのみ心を知るため、あなたのもとに立ち帰ってあなたの赦しを得て、あなたの道に従って歩み続けることができますように。」と祈っているのです。 そして、イスラエルの民だけでなく、イスラエルに属さない民のためにも、「大いなるみ名、力強いみ手、伸ばされたみ腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたは耳を傾け、その民があなたに叫び求めることをすべて叶えてください。」と祈っているのです。 戦争に出会うのも、災いに出会うのも、私たちが神のもとに立ち帰るために神の意図をもって興されたものでしょう。 災いと思われるものに出会った人も、出会わなかった人も、この神殿、祈りの家に来て互いに祈り合う、このソロモンの「祈り」が今、私たちに強く求められているのでしょう。 神のもとに立ち帰って赦していただくための「祈り」が求められているのです。



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