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「見えるみ業と見えないみ業」 使徒言行録5章17~26節

2019-11-10

使徒たちが捕らえられ、投獄されたのはここで二度目です。 最初の時は、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を癒すという出来事を起こした時です。 イエスが死者の中から復活したという事実を、民衆の前で堂々と宣べ伝えていた時です。 その二人の姿を見ていていた祭司長たちが「いらだって」投獄したのです。 そして、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と脅して二人を釈放したのです。 二度目となる今度は、「ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」と書いてあります。 こうして囚われた使徒たちに、目に見えて不思議なことが起こったのです。 何の抵抗もできない使徒たちでした。 牢にはしっかりと鍵がかけられていました。 念には念を入れて、その牢の扉の前には番兵までもが立っていたと言います。 そうであるにもかかわらず、使徒たちは牢の外に連れ出されました。 解放されただけでなく、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という神の言葉に呼びかけられました。 「神殿の境内」とは、使徒たちが捕らえられた現場です。 またしても同じように、もう一度そこに立ってみ言葉を告げなさいという神の命令であったのです。 使徒たちは凝りもせず、再び出かけて行って神の呼びかけ通りに「命のみ言葉」を民衆に向けて語りかけたのです。 この尋常ではない不思議な出来事に驚き、思い惑いながらも祭司長たちは、三度目の逮捕と投獄をここで行ったのです。 なすがままに身を委ねるしかできない小さな存在の使徒たちを、それがたとえ公の牢の中であったとしてもお構いなく、神は用いようとされるのです。 神の選びの器がたとえふさわしいと思えなくても、神はその選びにふさわしく働く場に立つまでどこまでも追い求めて、連れ出して、その務めの場に立たせてくださるのです。 私たちの状態がどうであれ関わりなく、神のご計画に沿って小さな存在である私たちでさえも用いてくださると言うのです。 いかなる妨げがそこにあろうとも、閉じ込める鍵をへし折って、その扉を開いて、妨げる番兵を差し置いて、そこから連れ出して神の働きの場に向かわせるのです。 この見えるみ業こそ、神の恵みのしるしです。 
しかし、神の恵みのみ業はここで終わらないのです。 そのしるしを通して、私たちは神の呼びかけ、神のみ言葉を聴くことができるきっかけを頂くのです。 使徒たちを裁く側の中から人を起こして、神はご自身のみ心を成し遂げられるのです。 民衆全体から尊敬されている人物、使徒たちを外に出すようにと命じることのできる律法の権威者であるガマリエルでした。 「使徒たちの行動が人間から出たものなら、自滅するだろう。 しかし、神から出たものであれば、使徒たちを滅ぼすことはできない。」というガマリエルの意見によって、釈放されたのです。 使徒たちは自分たちが釈放されたことをそこで喜んだのではなく、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ。 そして、言われた通り、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、福音を告げ知らせた。」と言います。 神は事を起こす前に、もうすでに使徒たちを迫害する最高法院の中から律法学者の権威を用いて準備をなさったのです。 神はご自身の働きのために、私たちの思いに先立って事を起こしておられるのです。 私たちは神の助けを願うことに夢中になって、神の呼びかけるみ言葉に耳を傾けることに貧しい者です。 見えるみ業に満たされた際に、神はご自身の働きのための務めを私たちに語りかけてくださるのです。 私たちはその恵みの結果だけに目を奪われて、神の務めの呼びかけを聞き逃してしまうのです。 私たちが気づいていようがいまいが、この命の言葉を語るべくして、その命の言葉に生かされるべくして、神は準備して呼びかけてくださるのです。



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