秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神の教会」 使徒言行録20章25~38節

2019-11-03

パウロがわざわざエフェソから教会の人々を呼び集めてもっとも伝えたかったことは、22節の「今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます。」ということでした。 そして、25節の「今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」という別れの言葉でした。 一連のことを語り終えたパウロに、エフェソから駆けつけた人たちは皆、「激しく泣いた。 パウロの首を抱いて接吻した。 悲しんだ。 けれども、パウロを船まで見送りに行った。」と書かれています。 エフェソの人々とパウロの50~60キロの距離を越えた感動的な再会と別れがここに記されています。
 パウロの姿に、イエス・キリストの姿を見ることができます。 イエスも「霊に促されて、導かれて、悪の霊から誘惑を受けるために荒れ野に行かれました。」 人間が通る様々な誘いを受けたイエスは、ことごとく神のみ言葉によって拒み、乗り越えて神の前だけに生きることを選び通されました。 そして、十字架において息を引き取るその寸前まで、まとわりついた悪の霊の誘いを振り切るかのように、イエスは最後の晩餐で弟子たちに別れを告げて、十字架の死に向かわれたのです。 パウロにとってエルサレムとは、どういうところでしょうか。 ユダヤ教の中心地です。 かつてパウロが熱心に律法を学んだ場所です。 そのパウロがイエス・キリストの呼びかけによって、自分が迫害していたキリスト者に自分自身が変えられたのです。 エルサレムのユダヤ教徒から見れば、パウロは裏切者です。 エルサレムを中心とするキリスト教会の人々からも同じです。 パウロが異教の地で教えている、律法に囚われない教えを快く思っていない人々がパウロの命を狙っていてもおかしくはないところです。 そのような激しい敵意に取り囲まれているエルサレムに、パウロは「霊に促されて行きます。 投獄と苦難とがわたしを待ち受けていることだけは、霊によって告げ知らされている。 だから、わたしの顔を見ることがなくなる。」と語っているのです。
 パウロは、「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こしてください。 公衆の面前でも、方々の家でも、ユダヤ人にもギリシャ人にも、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えました。 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を証ししてきました。 神のご計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えました。 このイエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという務めを果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」とまで言うのです。 パウロは命がけで、このアジア州で三年間主に仕えてきたのです。 そのようにして建て上げられたエフェソの教会の姿を、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」と言い、「エフェソの群れはだれのものでもない、神に属する、神の所有にある教会である。 群れのひとりひとりもまた、聖なる者とされている。」と言います。 何ら欠点のない、完全無比の教会と言っているのではありません。 神がご計画に沿って、導いてくださった教会である。 神ご自身が、その御子イエス・キリストの十字架の死によって赦して、ご自分のものとしてくださった取り分けられた神の民であると言っているのです。 神によって選び出されて、ご自身の民として集めてくださっているから、「聖なる者」になる。 その御子イエス・キリストの十字架によって贖われているから、集まるそこが「聖なる場所」となる。 そのために、神の教会の群れを、「注意して見張る、霊によって立てられた者」となると、パウロはエフェソの人々に告げたのです。 私たちにとって、エルサレム、エフェソとはどこのことでしょうか。



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