秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「捜し回ってくださるお方」 ルカによる福音書15章1~7節

2019-09-01

 「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」 イエスは羊と羊飼いの関係を用いて、何を譬えておられるのでしょうか。 この「見失った一匹の羊」とは、羊の側から見れば迷い出た羊でしょう。 神の側から見れば、見失われた羊でしょう。 イエスは、一匹の見失った羊と、その羊を見つけ出すまで諦めないで捜し回っている羊飼いの姿を用いて、何を語っておられるのでしょうか。 一匹の羊ですら見失われたことが、羊飼いの悲しみである。 しかし、見つけ出されて、失われた一匹の羊が戻って来るなら、羊飼いにとって大きな喜びである。 この見失われたものが戻ってくる。 神のもとを離れてしまっていることさえ気づいていないもの、神を必要としないで神の方を向いていなかったものが、戻ってくる。 これが神の無上の喜びである。 そのために、諦めることなく見つけ出すまで捜し回る羊飼いの姿こそが、神の姿である。 そこに神の恵みが注がれる。 神のご愛が満たされる。 神のもとを離れてしまっては生きていくことができないことを知らされて、神のもとに戻ってくるものに変えられる。 そのためにわたしはこの世に遣わされたのだと、イエスはこの「譬え」によって語っておられるのではないでしょうか。
 注意したいことは、この「譬え」を愛する弟子たちに語っているのではないということです。 この「譬え」を語っている相手は、ファリサイ派の人々や律法学者たちです。 この場にいるのはイエスのもとに近寄って来た徴税人や罪人たちと、このファリサイ派の人々や律法学者たちと、愛する弟子たちであったでしょう。 「徴税人」とは、ユダヤの人びとが忌々しく思っている、ローマの支配につけ込んで税金を取り立てて私腹を肥やしている人々です。 ユダヤの人びとからは裏切者であると、神の戒めを守ることのできない者であると蔑まれていた人々です。 自ら懸命に戒めを守り、自分たちこそ正しく生きている者である、「神の国」には当然自分たちが最初に迎え入れられる資格のある者である。 そう自覚しているファリサイ派の人々や律法学者たちから見れば、決して交わり合う理由のない人々、それが「徴税人や罪人たち」です。 そのような者たちがイエスのもとに近寄って来ている。 そうした人々を裁いてその罪を示すどころか、迎え入れて一緒に食事までしている。 彼らとまるで同じ仲間であると公然と示しているようなものだと、イエスに不平を言うまでになってしまっているファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスは「迷い出た一匹の羊と、失われた一匹の羊を捜し続ける羊飼いの譬え」を語っているのです。 迷い出た羊が捜し求めるより先に、羊飼いが先に捜し求めている。 人間が神を求めるより先に、神が私たちを捜し回ってくださっていると言うのです。 神は、私たちが祈り求めたから、私たちが神にしきりに頼んだから、私たちを捜し回っておられるのではありません。 神のもとを離れて、自分勝手に自分の好きな道を歩んでいることが「神の悲しみ」です。 捜し回って、戸口に立ってたたいているのに開けようとしない、注ごうとする神の恵み、神のご愛を受け取ろうとしないことが「神の悲しみ」です。 神はそのために、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。 私たちは神に見出されている者です。 神に愛されている者です。 恵みに満たされている者です。 自分しか見えていなかったその私たちが、今度は向きを変えて神の方へと舵を切って、「神の喜び」を知るようになった。 神の御心を知ることができるようになった。 そのようになって戻ってきたことを神が一番喜んでくださると、イエスは私たちに伝えておられるのではないでしょうか。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元