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「主と同じ姿に造りかえられる」 コリントの信徒への手紙二3章18節

2019-07-14

 「キリスト教保育」という小冊子に、「ことばは人そのもの、まさに命なのです。 穏やかな性格だから穏やかなことばづかいをするのではありません。 穏やかなことばが穏やかな性格をつくっているのです。」と書かれていました。 なぜ言葉が変われば、性格が変わると言っているのでしょうか。 言葉は、聞く者があって初めて語られるものです。 相手の人格に対する呼びかけ、働きかけです。 相手に言葉が語られる時、その働きかけによって生まれる相手の応答があるはずです。 その応答に今度は、言葉を語った者が働きかけられるのです。 その響き合いの中で互いに人格が影響され、造り上げられていく。 言葉はそうした力をもつ、「人そのもの、まさに命なのです。」 聖書は、神の言葉こそ、人間の人格に対する神の働きかけです。 神のご真実、ご愛の言葉の語りかけです。 神の言葉による霊の働きかけです。 人間の本性と在り方そのものを変えていく力であると言っているのです。 「造りかえられるのは、神の働き、霊の働きです。 これは主の霊の働きによることです。」とパウロははっきりとこの手紙で語っているのです。
 私たちがどのような姿に造りかえられるのかをパウロは、「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる。」と表現しています。 「覆いを除かれた鏡」とは、鏡に「覆い」がかけられているなら、神の働きによって照らされた光を、「覆い」が邪魔をして遮ってしまう。 鏡は、もともと神を現す「栄光」の輝きをもっているわけではない。 この「覆い」こそ、私たちの固定観念や自分のものさしや常識でしょう。 狭い自分の経験でしょう。 そのような「覆い」が取り払われて、解放されて、神が注ぎかけてくださっている光を映し出すことができる鏡へと造りかえられていく。 そして、「主と同じ姿」になっていくとパウロは言うのです。 パウロが語るその意味は、十字架に架かるその直前に、父なる神にささげておられる主イエスの祈りに示されています。 主はこの地上に遺していくことになる弟子たちに向けてこう祈っています。 「真理によって、彼らを聖なるものとしてください。 あなたのみ言葉は真理です。 父なる神がわたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。 彼らも、真理によってささげられたものとなるためです。」ととりなして祈ってその直後に、十字架のうえにご自身をささげられたのです。 主イエスの生涯は、神のご用のためだけに歩まれた生涯でした。 聖なるものとなるということは、イエスと同じように父なる神のご用のために「用いられる、ささげられる」ということでしょう。 人間イエスの姿こそ、その象徴です。 私たちの過去の姿がどうであったとか、今の姿がどのようなものであるのかに関わりなく、神は私たちを用いてくださるのです。 神の霊の働きによって、このようなはかない存在であっても神は選び出して、用いて、ご用のためにささげてくださるのです。 そのことを信じ、望みをもつ者には、主と同じように「霊に仕える務め」が与えられるというのです。 これをパウロは、「主と同じ姿に造りかえられる」と言っているのではないでしょうか。 「造りかえられる」のは、一回限りのことではありません。 日々新たです。 ひとりひとりに与えられたその生涯を閉じるまでの神の働きかけの体験の連続です。 パウロは、造りかえられることに身を委ね続けなさい。 その希望をもって身を委ねていく途上の旅人として、「過ぎ去りゆくものに目を奪われないで、見えないものに目を注ぎなさい。 神は必ず用いてくださるという希望をもって、この神のご真実とご愛に身を委ねなさい。」とパウロは語っているのです。



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