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「世から選び出された恵み」 ヨハネによる福音書15章18~25節

2019-06-23

 「世がわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」とあります。 この「憎んでいた」という言葉は、「拒んでいた」と訳してもいいかもしれません。 弟子たちの足を一人ずつ洗って、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と言われるほど、わたしとあなたがたは一体である。 だから、この世がわたしを拒むように、あなたがたをもこの世は拒むのである。 わたしを迫害するように、あなたがたをも迫害するのである。 それは、「わたしがあなたがたをこの世から選び出したからである。」とイエスは言われたのです。 この私があなたがたを選び出して、この世から連れ出したからである。 あなたがたはこの世にあって、もはやこの世に属していないのであると言われたのです。 イエスが告白しているように、「もし、わたしが来てこの世に向けて言葉を語らなければ、この世の過ちは見えなかったであろう。 もし、わたしがこの世においてだれも見なかった業を行わなかったならば、この世の過ちに気づかなかったであろう。」 イエスの言葉と業という「光」がこの「暗闇」を照らしたから、この世の「暗闇」が見えてきた。 イエスの「光」とこの世の「暗闇」がはっきりと分かれた。 イエスに結びついている弟子たちとこの世がはっきりと分かれたとイエスは言うのです。
 この「この世のもの」と「神に属するもの」との違いはいったい何でしょうか。 イエスは、「わたしをお遣わしになった方を知らないことだ」とはっきり言います。 私をお遣わしになった父なる神を知らないから、私を拒んでいる。 私を拒んでいる者は、私の父をも拒んでいることさえ分からない。 父なる神にこの私が遣わされなかったなら、この世は「暗闇」のままであった。 しかし、そこに私が遣わされたことによって、「光」が灯された。 その光の輝きによって、「暗闇」自らその「暗闇」を知ることになった。 この「暗闇」の中で、この私の光を見た者、それが「わたしがこの世から選び出した、この世から取り分けた」あなたがたである。 この「光」を見ようとも、知ろうともしない「暗闇」とはまったく異なるものである。 「あなたがたはこの世に属していない」のである。 そうであるけれども、この世の憎しみにさらされながら、それでもなおイエスの憐れみをもって立ち向かわなければならない「神に属する者」なのであるとイエスは言われているのです。 
 私たちは、イエスご自身が「この世から選び出した」存在です。 イエスがこの世から取り出して、集めてくださった存在なのです。 「この世に属していない」とイエスが宣言してくださっている存在なのです。 この世から、イエスと同じような扱いを受ける存在でもあるのです。 この世は、主人にするように僕にも同じようにすると言います。 この世は、父なる神、主人を知らないから、その主人に遣わされた者を受け取らないのです。 しかしイエスは言います。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。 大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。」(マタイ5:11)と言われているのです。 この世は、父なる神を知らないから、イエスにするようにわたしたちにもするのです。 しかし、父なる神は、イエスに与えられたように私たちにも天の報いでもって報いてくださるのです。 私たちが、この世で体験する悲しみや苦しみや痛みは、このイエスの恵み、選びを知るためです。 この「暗闇」にいるからこそ気づく悲しみや苦しみや痛みです。 愛の反対は気づかないことです。 気づかないこと、知ろうとしないことです。 恵みに気づいて感謝すること、これが私たちの喜びです。



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