秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「イエス・キリストという恵み」 ルカによる福音書16章19~31節

2018-12-16

 イエスの語られたたとえに、「ある金持ち」とその「金持ちの門前にいたラザロ」が登場します。 「ある金持ち」は、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言います。 一方、その「金持ちの門前にいたラザロ」は、できものだらけの貧しい人、金持ちの門前に横たわり、金持ちの食卓からこぼれ落ちるもので腹を満たしたいと思っていた。 しかし、それすら叶わない、犬が来て、ラザロのできものをなめるほどの有様であったと言います。 イエスはこの二人の登場人物と、当時のユダヤの人々が描いていたこの世と死んだ後にいく別の世界を用いて語るのです。 彼らは、正しい人は「アブラハムのすぐそばで宴席につくことができる。」 しかし、そうでない人は、「苦しみもだえなければならない『陰府』というところに行くことになる。」と思っていた。 このふたつの世界の間には、「大きな淵」があるとイエスは言うのです。 ユダヤの人々は、信仰の父であるアブラハム、このお方のいるところに帰ることが自分たちの永遠の住まいであると思っていた。 アブラハムの子孫ではない、異教の国の人々、神の戒めを守ることのできない罪人は、アブラハムのいるところには行くことができない。 『陰府』というところで苦しむことになると思っていたのです。
 私たちは自分の目で見えるものだけでものを見ます。 自分の納得できることだけを受け入れます。 しかし、イエスは、そのような見える世界、因果応報の当たり前の世界とはまったく異なる世界、神の恵みと憐れみだけが支配する世界があると言うのです。 金持ちが苦しみに苛まれて叫びます。 「今、そのすぐそばにいるラザロを、こちらの世界によこしてください。 苦しんでいるわたしを憐れんでください。 わたしの舌を冷やさせてください。」と訴えるが、だれもその「大きな淵」を乗り越えて渡ることができないと返事が返ってくる。 更に、「わたしの父親の家にいる兄弟たちが、こんな苦しいところに来ることがないように、よく言い聞かせてください」と叫ぶが、「聖書の言葉がもうすでに語られている。 もし死後の世界から生き返ってその苦しみを語ったとしてもその人の言うことを聞き入れはしない」という返事が返ってくる。 当時のユダヤの金持ちは、パンを薄く切ってナプキンがわりにして、それで手を拭いて食卓の下に捨てたと言います。 ラザロはその「パンくず」ですら与えられなかった。 このラザロの姿に、見捨てられたイエスの姿が重なってこないでしょうか。 イザヤはイエスをこう預言しています。 「彼は見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの病いを知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」と預言しています。 ラザロの姿にイエスの姿を見ることができるなら、この金持ちの姿こそ私たちの姿でしょう。 すぐそばに、隣人の姿をとったイエスがおられるのです。 その隣人に目を留めることも、受け止めることもしない姿を、神は悲しんでおられるのでしょう。 イエスの生涯は、いつも貧しい人、弱い人、罪人の友でした。 イエスは、「この最も小さい者のひとりにしたことは、わたしにしてくれたことなのである」と言われました。 私たちが勝手につくる線引き、これが成功だ、幸いだ。 これが失敗だ、災いだ。 私たちは身勝手で、数知れない裏切りと不信仰を繰り返しています。 そんな私たちをどこまでも気にかけて、忍耐して、諦めないで私のところに帰ってくるようにと、最後に支払われた高価な恵みであるイエス・キリストとの出会いを、神はこの金持ちの姿である私たちに与えてくださったのです。



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