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「従って、今や」 ローマの信徒への手紙8章1~11節

2018-03-18

 「従って、今や」と聖書箇所の冒頭にあります。 パウロは、この言葉をよく使っています。 「イエス・キリストの復活」という出来事が訪れた「今や」ということです。 神によって引き起こされたイエス・キリストの復活が、古い時代と新しい時代を分ける。 新しい時代の到来を告げる出来事であったと語っているのです。 キリスト教は、ユダヤ教の中から「イエス・キリストの復活」というひとつの事実によって分かたれた小さな群れでした。 当時の人々でさえも信じることのできなかった、説明することなどできない恐れおののく出来事であった「復活」の事実を、「従って、今や」、新しい時代が訪れたと、この小さな群れが人を恐れず大胆に語り始めたのです。 パウロは言います。 「わたしは自分のしていることが分かりません。 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。 自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆いています。 しかし、「イエス・キリストの復活」が訪れた今、キリスト・イエスによってもたらされた霊の支配する世界が、神のもとから離れさせようとする罪と死の支配する世界から私たちを解放してくださった。 「従って、今や」、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロは宣言しているのです。 最初の人アダムが神に背いて、そのからだに浸みこませてしまった罪の力、人間ではどうすることもできない死の力から解放された。 私たちの本性とも言うべきものの中に、神に背かせようと支配する強大な力がある。 それを「肉」の中にある「罪」と言っている。 それをイエス・キリストを通して神が裁かれた。 これがイエス・キリストの十字架の「死」である。 その「死」によって私たちの「罪」と「死」が裁かれたと言っているのです。 
 しかし、神はそこで終わらせない。 その「罪」と「死」に眠ってしまっている私たちの最初の人として、初穂として、「罪」と「死」に縛られている私たちの代表として、神はイエス・キリストを、「肉の思い」が浸みついたからだから解放し、新しい命に生きる「霊の思い」が支配する新しい世界を実現された。 古い体を抱えて、なおも「罪」と「死」の支配を頻繁に試みられるこの現実の中で、イエス・キリストの復活の出来事に与かる者として、イエス・キリストに属する者として新しい霊の命に生きることが赦されるようになった。 新しい時代が始まったとパウロ自身の今の体験を伝えているのです。 パウロは、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」と言います。 「キリストがあなたがたの内におられるならば」、あるいは「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら」、「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と言っています。 この「生かす」という言葉は、「命」を「つくる」という合成された言葉が使われています。 「復活させる」ということです。 私たちを神のもとから離れさせる、神を見えなくさせる、神の声を聞えなくさせるすべてのものからの解放が、私たちの「救い」です。 最初の人アダムによって失われてしまった「神との交わり」を取り戻すことです。 そして、もうひとつの「救い」の側面は、「霊」が与えられるということです。 神の霊です。 キリストの霊です。 イエスを死者の中から復活させたお方の霊です。 この霊が、私たちに神を知らせるのです。 人間の能力や資格や頑張りでは知ることのできない、神を知る力が与えられるのです。 神が求めておられること、神が喜ばれること、神のみ心を知る力が与えられるのです。 これによって私たちはイエス・キリストの復活に与かり、キリストに属する者となるのです。



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