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「十字架のそばにいるイエスの母と弟子」 ヨハネによる福音書19章25~30節

2017-10-29

 イエスの人間としての地上での最後の時は、十字架にかけられている時でした。 最後の場所は処刑の場でした。 そこには、イエスを欺いて策を弄して告発した人々がいる。 処刑されているイエスを、ただ眺めているだけの人々がいる。 イエスの服を分け合う自分勝手な兵士たちがいる。 愚かに見える、みすぼらしく見えるイエスの姿を嘲り笑う人々がいる。 聖書は、そのような悲惨で、孤独で、残酷な十字架のすぐそばに、「イエスの母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っている。」と言います。 そして、「イエスの母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、イエスは呼びかけられた。」と言います。 怒号や叫び声が渦巻く騒がしい処刑のさ中に、イエスの小さな短いみ言葉が十字架の最後に語られたと聖書は語っています。 今まさに息を引き取ろうとしている十字架のうえのイエスが、母マリアに「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です。」 更に、幼い年齢であったので捕らえられる恐れがなかったのかもしれない「愛する弟子」に、「見なさい。 あなたの母です。」と言われたのです。 聴き取られたイエスのふたつの言葉はどういうことなのでしょうか。 これを聴き取ったイエスの愛弟子は、「そのときから、イエスの母を自分の家に引き取った。」と言うのです。 ご自分の死に及んで、自分の母を遺すことになる。 身近に頼れる人に、お母さんをよろしく頼むと言っているように聞こえる。 確かに、この愛弟子に母マリアを託したのでしょう。 だから、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取ったのでしょう。 しかし、考えてみてください。 この短いふたつの言葉を語り終えた後すぐに、イエスは「渇く。 成し遂げられた。」と言われて、頭を垂れて息を引き取られたのです。 その最後の瞬間に語られた言葉が、「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です。 見なさい。 あなたの母です。」という言葉なのです。 これがなければ、神のみ心は成し遂げられなかった。 このみ言葉が語られなければ、イエスは息を引き取ることができなかったと言わんばかりのイエスの言葉です。 十字架上の七つの言葉のうちの一つです。 なぜ、イエスは身内に向けた言葉と思われるような言葉を語られたのでしょうか。 
 人間的にみれば、人生の終わりの言葉でしょう。 しかしイエスにとっては同時に、父なる神のみ業の完成の時の言葉です。 我が子でありながら神の子であるという理解に苦しみながらも、神に委ねて養い、育ててきた母マリアに、この地上の最後の時に語る言葉です。 果たすべき私の責任は、この十字架に架けられてすべての者のために命を捨てることである。 あなたの子は、この十字架に架けられて神のみ業を果たす者である。 この「人」の死の終わりから、新しい「神の業」が始まる。 新しい神の家や神の家族が与えられる。 母マリアは改めて、イエスから「婦人よ、ごらんなさい。 あなたの子です。」と、「あなたは間違いなくわたしの母です」と呼ばれています。 まもなく私はよみがえらされて、すべての人のために新しい命を分け与えることになる。 新しい神の家族が産まれることになる。 これから、あなたを母と呼んでくれる新しい子が与えられると、「愛する弟子」の方へ眼を向けさせたのです。 その愛弟子に、「見なさい。 これがあなたの母です。」と言われて、新しい神の家族をつくり出されたのです。 終わりの時が始まりの時でした。 イエスが自分の死を父なる神に委ねたその時から、新しい神の民の歩みが始まったのです。 マリアは、我が子を失うことによって十字架による新しい神の家族の恵みを知りました。 この身内への最後の言葉こそ、まさに神のみ業の完成を意味するものであったのです。 イエスの十字架の最後は、身内へのとりなしの祈りでした。 新しく築き直してくださる神の家族への祈りでした。 イエスはご自身の家族を自らつくり出すと宣言されて息を引き取られたのです。 私たちもまた、神の恵みが成し遂げられたと語る者に変えられるのです。 



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