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「泣いたペトロが語る神の真実」 マルコによる福音書14章66~72節

2017-09-24

 ユダヤの大祭司やローマ総督の前であろうが、嘲る人々や兵士たちの前であろうが、周囲が敵だらけのところで、命がけで真実を貫いたイエスでした。 まさに主イエスの戦いの真っ最中の時です。 イエスが大祭司の尋問を受けているそのような時に、ペトロはその大祭司の館の中庭にいたというのです。 主イエスが剣や棒で囚われた時に、弟子たちはイエスを見捨てて、皆、逃げてしまったはずです。 そんなところに、ペトロだけが、のこのこと入り込んでいたのです。 居合わせた人々と火にあたって、たわいもない会話をしていたのでしょう。 かつて、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことは知らないなどとは決して申しません」と、勇敢に語っていたペトロの姿ではありませんでした。 イエスの弟子であることを隠して、大祭司の中庭に居る人々に溶け込んで装っていたペトロでした。 そのペトロに向けて、不意の言葉がかけられました。 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」という、大祭司に仕える女中の言葉でした。 最初は、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からない。見当もつかない。」と受け流した。 とぼけてその場を繕って、何気なく中庭の出口の方に逃げて行く。 女中はそれを許さない。 「この人は、あの人たちの仲間です。」と、今度は周囲の人たちに叫ぶ。 いよいよ追い詰められたペトロが言い訳をすればするほど、墓穴を掘ります。 慌てたペトロの言葉に、ガリラヤの匂いがしたのでしょう。 「確かに、お前はあの連中の仲間だ。 ガリラヤの者だから。」 ついにペトロは逃げ場を失って、「あなたがたの言っているそんな人は知らない。」と誓い始めたのです。 
 私たちを試みる力は、私たちが油断している時に何気なく近寄ってきます。 巧みに私たちを落とし込んでいきます。 気がついたら、深みにはまって身動きができないまでになってしまう。 ですから、小さな綻びを軽んじてはなりません。 ペトロは何を間違ったのでしょうか。 ペトロはイエスの「鶏が二度泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出して、いきなり泣いたとあります。 真実を貫くことができなかった自分の弱さ、その場かぎりに虚ろってしまう自分の愚かさに泣いたのでしょうか。 そうではありません。 ペトロほど、イエスに直接教えられた弟子はいないはずです。 まざまざとイエスの業を目の当たりにした弟子はいないはずです。 自らもイエスの名によって力ある業をなすことができた人物です。 そのペトロが、切羽詰まってイエスと関わりがないように生きようとしてしまった。 装って、繕って、嘘をついて、綻び始めると逃げ出そうとした、その自分の本当の姿を見つめさせられたのです。 試みに出会った人間の真の姿です。 イエスの言われた通りになってしまった。 自分が決意表明したものは一瞬のうちに崩れ落ちてしまった。破れ果てて、途方に暮れて、立ちすくんでしまって、思わずとんでもない言葉を吐いてしまった。 心の奥底にあった自分の罪がえぐり出されてしまった。 その自分の姿を、今、十字架にかけられようとしているイエスが変わらずじっと見つめておられた。 浅はかで愚かなこの自分を、すでに主イエスはすべてご存じであった。 そのまなざしに、変わらない憐れみを見ることができたのです。 「わたしを知らないと言うであろう」という言葉を思い出し、その中に憐れみを見出すことができたのです。 今、主イエスがかかってくださっているこの十字架は、私のためであった。 裏切ったこの私が一緒になって、この十字架の裁きに加担したものであったと気づかされたのです。 この自分が犯してしまった取り返しのつかない、恥ずかしい出来事を、後に、ペトロ自らが語り出したのです。 
 すべての弟子が、イエスのもとに戻ってきたわけではありません。 ペトロは自分の愚かさや弱さを乗り越えて、十字架に自らつかれたイエスの愛と真実に飛び込んで帰ってきたのです。 その立ち帰ったペトロを、イエスが再び立ち上がらせてくださったのです。 これが「よみがえりの力」です。



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