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「信じることと赦されること」 マルコによる福音書11章20~25節

2017-07-09

 エルサレムの十字架のもとを目指して、先を急がれていたイエスでした。 「翌朝早く」とあります。 「翌日の朝」とは、実のなっていないいちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」という、寛容で柔和なイエスが語ったとは思えない言葉を発せられたその翌日の朝早くです。 神殿の境内で売り買いをしていた人々を追い出して、両替人の土台や鳩を売る者の腰かけをひっくり返すという乱暴なふるまいをイエスがされたその翌日の朝早くです。 だれも気づかなかった「一本のいちじくの木」にペトロが気づいたのです。 思い出したのです。 あのいちじくの木は、昨日、イエスが呪った木ではないか。 そのいちじくの木が、今朝見るとイエスが言われた言葉の通りに根元から枯れているではないか。 「先生、ご覧ください。 あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」と叫んだペトロでした。 ペトロは、イエスがいちじくの木を呪ったと聞いていたのです。 
 そのペトロにイエスが言われた言葉が、「神を信じなさい」というみ言葉でした。 このみ言葉は、「持ちなさい、信仰を、神の」という言葉になります。 自分がどれだけ信じているかに拠り頼むならば、いずれその信仰は揺らぎます。 行き詰ります。 人間の側に頼るべきものは何もないのです。 しかし、十字架につけられたイエス・キリストに現れた神の憐れみ、神の愛に立つなら、そうとはならないでしょう。 変わることのない神のご真実に拠り頼むなら、信仰は揺らぐことはありません。 この神の確かさをあなたがたのうちに持って、それも、「少しも疑わず、信じなさい。」と言われているのです。 そのように信じ切ることが、私たちにできるでしょうか。 イエスは、『祈り求めること』によって「神を信じなさい。 少しも疑わず、信じなさい。 神の確かさだけをしっかりもって、信じなさい。」と言われているのです。 マルコが「祈り」について語っているのはこの聖書箇所だけです。 たとえ不可能だと思えることであったとしても、目にはまるで見えていないものであったとしても、何でもおできになる神の約束を抱いて信じるなら、「そのとおりになる。」と言われます。 なぜなら、私が共にいて執り成しているから「信じる者は、何でもできる」と言われているのです。 神が全知全能であることを知っていても、分かっていても、はるか遠い存在であるなら信仰にはなりません。 祈りは、神に対する働きかけではありません。 私たちが祈り求めたから、実現しているのでもありません。 神が働いてくださったからです。 私たちの祈りにおいて、主イエス・キリストの名による執り成しがあって初めて、父なる神が応えて働いてくださるのです。 ですから、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」とまで言います。 「わたしの思いは、あなたがたの思いを、高く超えている。 わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:8)と語られているように、狭い自分の願いをはるかに越えて、広い豊かな神の思いに生きるようにと促しておられます。 しかし、「わたしは彼らを集めようとしたが、いちじくの木にいちじくはない。 葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。」と父なる神は嘆いておられたのです。 イエスはそれでも、忍耐の限りを尽くし、「いちじくの木」に実がなるのを待っておられます。 「いちじくの木」は、神が実を結ぶために準備された場所に植えられた木です。 神の業がその木に起こされるためです。 悔い改め、赦しの機会が与えられているのです。 砕かれて、ただ神の前に進み出るだけで与えられる赦しの実です。 そのいちじくの木をイエスは呪うでしょうか。 イエスは、「赦してもらいなさい。 神に赦された者として祈りなさい。」 そのことが赦されている。 根元から枯れるように滅ぼされなければならないのは、私たちの過ちです。 罪です。 そのために、「枯れたいちじくの木」に主イエスはなってくださったのではないでしょうか。 赦されて、疑わず、信じて、祈り求めるところに、わたしがいるとイエスは言われます。



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