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「家を建てる者の捨てた石」 詩編118編5~25節

2017-03-12

 詩編118編は、お祝いの時、祝祭日の際に礼拝の中で歌われた賛美です。 過越しの祭りの食卓で感謝をしめくくる最後の賛美であったようです。 「恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに」という語りかけの言葉によって始まり、終っています。 「主に感謝をささげる」ということが呼びかけられています。 神の民すべてに、「感謝すること」を促しています。 「苦難のはざまから主を呼び求める。」 すると、「主は答えてくださる。」 「主は、その苦しみからわたしを解放してくださる。」 「主はわたしの味方、助けとなって、わたしの敵となる者を支配するまでになることを見させてくださる。」 だから、「わたしは解き放たれた。 わたしは誰をも恐れない。 敵となる者はわたしに何もすることができない。 わたしは人間に頼らない。 この世の力に頼らない。 ただ、主だけを避けどころとする。」と、高らかに賛美しています。 私たちもまた、人生の階段を一歩ずつ歩んでいきますと、本当に様々な苦しみに出会います。 その都度、鍛えられ、新しくされていきます。 どうしても解決することができなくて、呆然とたちすくむ時もあります。 何もかも諦めた時です。 不思議な平安が与えられる経験をされたことはないでしょうか。 私には、呼び求めるお方がおられる。 どのような立場であっても、願うことすら赦されないような状況にあったとしても、私には祈り求めることが赦されている。 それも助けてもらえる理由のない私の側に立って、味方となって、助けとなって励ましてくださる。 私の弱さや醜さを責めることなく、むしろ憐れんで、慰めまでしてくださる。 そのことに気づかされる時が幾度となくあります。 この詩人もまた、「激しく攻められて倒れそうになった私を主は助けてくださった。 救ってくださった。 だから、自分の側に立ってくれる人がだれ一人いないようなところでも、また、敵に何重にも包囲されているような困難なところを通らされても、私は主のみ名によって歩んで行く。 主のみ名が、取り囲む敵から解放してくださるから、また主の右の手によって主の力が私を包んでくださるから、私はその主の救いの喜びを歌う。 主の門を通って主に従い、主に感謝をささげる。 わたしはあなたに感謝をささげる。 あなたはそれに答え、救いをわたしに与えてくださった。」と賛美しているのです。 「わたしたちの目には驚くべき主のみ業であった」と表現している通り、不思議な出来事です。 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」と表現しています。 家の四隅に置かれる親石とは、その建物を支える大事な石です。 親石には、選び抜かれた、もっともふさわしい石が用いられるはずです。 人からも神からも捨てられて、軽蔑された石が、時が満ちて主の名によって選ばれ、救われ、もっともふさわしい時にもっとも重要な土台となって、再び用いられるようになった。 主のなさることは驚くべき業、私たちの思いをはるかに超えた業です。 私たちがどのような状態であったとしても、この「隅の親石」となってくださった主の救いにもうすでに私たちは与かっているのです。 この主のみ業に与かっているから、「感謝をささげる」のです。 私たちが役にたたないと捨てた石です。 つまずいた石です。 十字架につけた石です。 それが、父なる神の寛容によって、大きな愛によって、私たちの「救い」となってくださったのです。 詩人が、主の名によって、主の力によって生かされたと悟ったように、私たちもまた「捨てられた石」が「隅の親石」となるという、敗北の中にある逆転の勝利という驚くべき業を本気で信じましょう。 そして、私たち自身もまた「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるよう」、「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げて」(ペトロ一2:5)参りたいと心から願います。 



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