「ぶどう園に行きなさい」 マタイによる福音書20章1~16節
ぶどうを摘み取る仕事は、とても緊急を要する仕事であったようです。 そのために、ぶどう園の主人は何度も広場に出向いて行って、働く労働者を求めました。 広場には、その日の生活の糧を得るために、働きを求めて人々が集まっていたのです。 イエスは、このようなありふれた暮らしを用いて、「神の国」を見事にたとえられたのです。
このぶどう園の主人は、夜明けに出かけて行って、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、5時ごろにも出かけて行きます。 その度に、何もしないで広場に立っている人々の姿が目に入ります。 「あなたたちもぶどう園に行きなさい。 ふさわしい賃金を払ってやろう。」と声をかけます。 一日の始まりから、日が暮れようとする一日の終わりにまで、ぶどう園の主人は働く労働者を求めるのです。 それだけではない。 一日の終りに、一日分の賃金である銀貨1デナリオンを等しく、それも最後に来た者から順番に払うと言うのです。 「神の国」とは、このようなぶどう園の主人と働く労働者との交わりのようなものであるとイエスは語るのです。 ぶどう園の主人は「神」です。 広場に立って仕事を求める者、ぶどう園に行って働く者は、「私たち」です。 神は朝早くから、自ら私たちのところに来られるのです。 一度だけでなく、何度もです。 神は、決してじっとしておられません。 「あなたたちも、ぶどう園に行きなさい」と何度も招くのです。 すべては、神が先ず働きかけてくださった恵みの業であるとイエスは語るのです。 どれだけ「私たち」が働いたとか、どのような報いであったとか、賃金が払われる順番は、この神の招きの前には大したことではないのです。 約束の1デナリオンをいただく資格のない「私たち」が呼びかけられ招かれて、それぞれに頂くのです。 信仰とは、この神の招きに応えて出かけて行って、ぶどう園で働くことです。 神は、この世のだれも雇おうとしない、「何もしないで広場に立っている」人々を求めておられるのです。
もっと、多く賃金をもらえるだろうと思っていた、最初に雇われた人々がいます。 「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、最後に来たこの連中とが、なぜ同じ扱いなのか。」と不平を言い出した人々です。 ぶどう園の主人は、この不平を言い出す人々も、また「だれも雇ってくれないのです」とつぶやく人々と同じように、すべての人を等しく喜んで迎え入れているのです。 それがどのような時であっても、等しく恵みを与えてくださっているのです。 このたとえを語っておられるイエスご自身が、これらすべての「私たち」のために、父なる神から遣わされたのです。 なぜこの順番なのか、なぜこの報いなのか、なぜ雇ってくれないのかとつぶやく「私たち」の傍らに、父なる神から遣わされた主イエス・キリストが立ってくださっているのです。 この恵みに感謝しつつ、ぶどう園に出かけて行って、「私たち」は、ともどもに主のために働くのです。
「福音を指し示す指」 マルコによる福音書13章3~13節
今朝のみことばの発端は、エルサレム神殿を見て言った一人の弟子の何でもない発言でした。 「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」 イエスはその弟子に向って「この大きな神殿という建物を、あなたは見ているのか」と話しかけ、なんとエルサレム神殿の崩壊を予告したのでした。 弟子たちは、この予告が気になって仕方がなかった。 最古参の弟子たち4人が、その不安に苛まれて密かに尋ねます。 「おっしゃってください。 そのことはいつ起こるのですか。 その時には、どんなしるしがあるのですか。」 イエスは、目に見えるもの「天地は滅びるが、わたしの言葉が滅びない」と宣言し、「終わりの日」があることを弟子たちに告げます。 予告通り、その約40年後にエルサレム神殿は崩壊します。 イエスは、40年後に起こること、更にその向こうに、この世の「終わりの日」があることをいつも見つめておられたのです。 この弟子たちの問いに、あなたがたは「終わりの日」まで、「信仰の迷いに陥ることのないように、気をつけなさい」、「その日まで信仰から離れることがないように、いつも目を覚ましていなさい」と語り出したのです。 イエスの名によって惑わす者に気をつけなさい。 戦争や騒ぎを通して「終わりの日」はやってくるものではない。 それらはみな、「まだ終わりではない。 産みの苦しみの始まり」であると言うのです。 戦争、地震、飢饉、迫害など、想像以上に苛酷なところに立たされている弟子たちに、「産みの苦しみ」という新しい命の誕生をイエスは見ておられた。 苦しみを通りぬけた後の希望を見ておられた。 「産みの苦しみ」には、新しい命の誕生という希望があります。 その希望が、今の苦しみを乗り越える力と慰めをもたらします。 イエスは、明らかに、「終わりの日」を希望の目をもって見つめておられたということです。
イエスは、もうひと言「自分のことに気をつけなさい」と言います。 あなたがたは、引き渡される。 打ちたたかれる。 連れて行かれる。 兄弟が兄弟を憎しみ、親と子が憎しみ合うようになる。 あなたがたも憎まれる。 あなたがたは、そのようなところに立たされる。 しかし、イエスは、あなたがたがどこに引き渡されても、だれの前に立たされても、どんな仕打ちに遭わされようとも、周囲の状況がどのようになったとしても、あなたがたは私を証しする。 私の福音をあなたがたは伝える。 私の霊があなたがたに宿る。 「終わりの日」まで、私の遣わすところにあなたがたは留まると言われたのです。 事実、イエスはこの世を最後まで愛し抜かれて、命をささげられたお方です。 私たちもまた、「終わりの日」の希望を仰ぎながら、今、この時を生き切ることが、最後まで信仰に留まることになる。 その生き様が、福音を指し示すことになるとイエスは言うのです。 神が、私たちの「からだ」を通してご自身を指し示すようにしてくださるのです。
「残された切り株」 イザヤ書6章1~13節
神の恵みとしかいいようのない罪の赦しを受けた預言者イザヤに与えられた務めは、民に主のみことばを告げることでした。 問題は、そのみことばの内容です。 イザヤが民に語れば語るほど、民の心が頑なになり、目が見えなくなり、耳で聞けなくなると神に告げられたのです。 その時代の民の不信仰を厳しく非難する役目を、イザヤは与えられたのです。 民から拒絶され、憎まれ、挙句の果てに害を加えられる。 そのイザヤの口から出た言葉が、「主よ、いつまででしょうか」という弱々しい返事でした。 そのイザヤの精いっぱいの問いに神が答えたことは、「町々が崩れ去って行く。 住む者がいなくなる。 家々の人影がなくなる。 大地が荒廃して崩れ去るときまで」という厳しいものでした。
しかし、そのイザヤを、神が憐れみに満たして立ち上がらせます。 「切り倒されても、焼きつくされても、それでも切り株が残る。」 ほんのわずかかもしれない「残された切り株」、そこに新しい命が与えられるとイザヤは語り始めます。 このイザヤが語る神の約束を心に留めた、わずかな「残りの者」がいた。 国が崩れ去ってその民が他国に囚われた後にも、このイザヤの希望の預言が真実であったと語る者がいた。 その預言を書き遺したものが、聖書の正典となったのです。
イザヤは「その切り株とは聖なる種子である」と言います。 ヨハネによる福音書は、民の目を見えなくし、心を頑なにし、民が目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らないのは、イザヤのこの預言が実現する為であったと書いています。 そこには、切り倒されなければならなかった、民の不信仰という悲しい理由があった。 その切り倒され、焼きつくされた後に残された切り株を土台に、神の国という新しい芽が産み出される。 主なる神に背いた不信仰の滅びによって断ち切られた、残された切り株にこそ、主なる神は聖なる種子を置く。 主イエス・キリストは、その切り株から生み出る新しい芽であるとイザヤは語るのです。 私たちの不信仰にも、壮大な主の不思議な力、救いのご計画が働いています。 主の憐れみは、私たちの不信仰をはるかに超えています。 私たちもまた、古い生き方を主のみことばによって断ち切られ、刈り取られ、切り株となった者です。 切り株には、痛みが伴います。 しかし、どうしても刈り取られなければならなかったのです。 しかし、主はその愛とご真実によって、主イエス・キリストの十字架という聖なる種子を私たちに植えてくださったのです。 そこに神の子なるイエス・キリストの命が植えられたのです。 残された切り株は、数少ないかもしれません。 神はすべての者にみことばを語って招いておられます。 私たちは、「残された切り株」として、遣わされたところでこのみことばを持ち運ぶ務めを頂いているのです。
「新しい生き方」 エフェソの信徒への手紙5章1~5節
この手紙が書き送られた時代には、イスラエルはすでに崩壊していました。 一方、ローマ帝国は、安定や豊かさへと向って行く時代でした。 このローマの安定と豊かさという繁栄に浸り切った人々は、良からぬ行いや、飽くなき豊かさを得るための汚れた行いへと向って行きます。 今朝の聖書箇所には、「無限に豊かさを追い求めていこうとする貪欲さ」と、「そのために知らず知らずのうちに、神ならぬ者に頭を下げていく偶像礼拝」が浮き彫りにされています。 「みだらなこと」、「汚れたこと」、「卑猥な言葉」、「愚かな話」、「下品な冗談」という表現が相次いで出てきます。
しかし、手紙の送り主は、すでに救われたあなたがたは違う。 これらのものとは離れて生きているはずである。 あなたがたは、古い生き方を捨てて新しい生き方に生きるようになっている。 新しい人を身に着けて歩むことができるようになっている。 風潮や目先の事情に動かされない確かな礎に立つようにと勧めているのです。 そうであるのに、エフェソの信徒の人々は、ローマの安定と豊かさのなかで、いつしか自分の豊かさを求めるようになった。 神を知らない者たちと同じような生き方になってしまった。 しかし、手紙は語ります。 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」 「あなたがたも、神によって与えられる愛によって歩みなさい。」とだけ言います。 父なる神が、私たちを子供として愛してくださっているように、何者にも動かされない「神の愛」によって歩みなさいとイエスは言われるのです。 聖書は、「あなたがた救われた者は、神から新しく生まれたものです。 新しく生んでくださったお方を信じて愛する者は皆、そのお方から生まれた者をも愛するのです。」とはっきり語ります。 神の賜物として与えられるこの「神の愛」を確かな礎としてあなたがたは歩みなさいと手紙は語るのです。
この手紙の送り主は、神から与えられるこの神の愛によって踏み出す時に、「感謝を表しなさい」とひと言付け加えています。 私たちは、手にしたくない、見たくもない、受け取りたくないものがどうしてもあります。 神から与えられたものに、素直に感謝することができません。 私たちは、目の前に差し出された嫌なもののために、神に感謝することができないのです。 しかし、救われた私たちは、神がおられること、神が生きて働いておられること、今までと変わらず愛し続けてくださることを信じることはできます。 与えられたものを神に感謝することが難しい時でも、必ず真実を貫いてくださる愛の神を感謝することはできるのではないでしょうか。 神を感謝する。 神を信じる。 これこそ、私たちの礼拝、賛美、祈り、献身です。 救われた私たちは、神がこの祝福に招いておられる全ての者のために、新しく遣わされるのです。
「信仰の証しにあふれる教会」 ルカによる福音書7章1~10節
百人隊長は、死にかかっている部下の一人を助ける為にイエスに助けを求めます。 異邦人でありながら、ユダヤ人から人望があった百人隊長は、ユダヤの長老たちに仲介を願い出ます。 ユダヤの長老たちも、「あの百人隊長は、助けるにふさわしい人である。 私たちのために会堂も建ててくれた人である。」と、助ける理由をイエスに訴えます。 しかし、異邦人であった百人隊長は、イエスを自分の家に入れることも、直接会うことも遠慮します。 「自分には、イエスの前に出る資格がない。 ひと言おっしゃってください」と、ひれ伏してイエスの言葉を求めたのです。 百人隊長は、イエスにすがる資格もない。 部下のいのちを助ける力もない。 イエスのみことば以外にはすがるものは何もありませんとひれ伏したこの百人隊長の姿を、イエスはご覧になった。 みことばをくださいと哀願したこの百人隊長の信仰を、イエスは見て取られたのです。 イエスは、「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。」と言われたのです。 私たちは、人の心の中を見ることはできません。 どのような信仰をもっておられるのかも分かりません。 しかし、イエスにはそれがはっきり見えると言うのです。 百人隊長にとっては、どう考えても解決の糸口が見つからないところにまで来てしまっている。 自分が努力して克服できることならば、言う通りになる多くの部下を通して解決していくだろう。 イエスは、もはや神の力を頼るしかない所に追いつめられたこの百人隊長の願い求める信仰を、見られたのです。 私たち人間の側に望みが断たれたその所からこそ、神のご計画が静かに始まります。 そして、神ご自身がその救いを証ししてくださるのです。 百人隊長は、イエスのひと言は与えられなかったけれど、すでにその部下は元気になっていた。 百人隊長は、部下の癒しを願い求めたら、イエスのみことばにすがる信仰を与えられた。
イエスは、百人隊長の信仰がはっきり見えたと言われるのです。 私たちは、この信仰に立ちたい。 このような信仰者の群れでありたい。 この神の恵みと憐れみの力に、驚きと賛美をささげる教会でありたいと願います。 今もなお、イエスは聖霊によって語り続けてくださっています。 イエスのみことばがなされるのを妨げているのは、私たちの側の原因です。 信じて疑わないならば、驚くような神のみこころが成し遂げられるのです。
「神の養いの驚き」 列王記上17章1~16節
北イスラエル王国の王であったアハブ王は、イエスラエルの農民の昔ながらの土地を、はかりごとをもって人を殺し奪い取った王でした。 それだけではなく、異邦の地の神バアルにひざまずいて仕えた王です。 このアハブの背信に対して神は、エリヤを遣わしてみことばを託します。 「わたしの仕えている神、主は生きておられる。 わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」と語って、時の権力者アハブの前にエリヤは立ったのです
しかし、そのエリヤに、「ここを去り、東に向い、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。」と神は告げます。 「身を隠してそのケリト川の水を飲むがよい。 からすに命じて、そこで養わせる」と告げます。 エリヤがその身を隠してそこにとどまっていた間、数羽のからすが朝に夕にパンと肉を運んで来てエリヤを養ったというのです。 しばらく経って、今度はケリト川の水が干上がってしまった時、「立ってシドンのサレブタに行き、そこに住め。 わたしはひとりのやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と神は告げます。 シドンのサレブタとは、異教の神バアルの信仰に満ちあふれた地です。 エリヤは、自分が憐れみと施しを「からす」や「やもめ」から受けるために、なぜ異邦の地にとどまらなければならないのですかと尋ねたくなるぐらいです。 施しを受ける為に訪れた所で見たやもめの姿は、「ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。 それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかり」と語る姿でした。
「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」と、神のみことばを告げたのはエリヤ自身でした。 「わたしの仕えている神、主は生きておられる」というみことばの前に、エリヤは立たされたのです。 今、死の前に立たされようとしているやもめの姿の前に、エリヤは立たされたのです。 エリヤは、言葉を失ったでしょう。 しかし、神は、エリヤに異邦の地にあってもケリト川の水を用意された。 パンと肉を運ぶからすを用意された。 水が干上がった時には、その居所を移すようにと導かれた。 そこには一人のやもめが用意されたのです。 エリヤは心を振り絞って答えます。 「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることがない。 瓶の油はなくならない。」 神は露も雨も支配しておられる。 生きて働いておられる神が、壺の粉も、瓶の油も用いるためにこそなくさない。 そう約束してくださっていると訴えたのです。 このやもめも、養われるために訪れたエリヤも、何も持っていない者でした。 しかし、神の憐れみによって共に養われている者です。 エリヤは、間違いなくやもめの姿を通して、神のみことばに立つように神に養われたのです。 助けられるはずのやもめの姿が、神の憐れみによって養う者として用いられたのです。 神の養いは、自分も養われ、同時に人をも養われるという神の憐れみです。 これこそ、私たちが生かされている神の恵みです。
「恵みの支配のたとえ」 ルカによる福音書16章19~31節
イエスのたとえは、単刀直入です。 誰に対して、どのような時に語られたものであるか理解しないままに聞きますと、私たちに誤解が生まれます。 今朝は、ファリサイ派の人々が思い込んでいる死後の世界を用いて、ファリサイ派の人々にイエスが語られたたとえです。 イエスは、「ある金持ち」と「ラザロというできものだらけの貧しい人」の立場は、死んだ後の世界では逆転すると言います。 理由は、ただ「金持ち」はこの世で良いものを受けていた。 「貧しいラザロ」は、この世で悪いものを受けていたからだと言うのです。 イエスは、間違いなく、貧しい者の立場に立って語ります。 この世の世界と、神の永遠の世界では立場が逆転する。 その「ラザロ」と「金持ち」の間には、「大きな淵がある」と言います。 目に見える「富や力」や「身分」を誇り、自分がその価値を持っていると誇ることをイエスは問題にします。 「人に尊ばれ称賛を受けているものは、神には忌み嫌われる」と言うのです。 「ある金持ち」とは、ファリサイ派の人々の姿です。 一方、何も誇るべきものがない。 何も持たない者として、神の前にそのままの姿で出てうなだれている「ラザロ」の姿こそ、私たち貧しい罪人の姿です。 イエスは、力なく、みすぼらしく、虐げられたものとして、私たちと同じ姿を取って現れてくださいました。 自分を誇りとする者であるのか、神の前にひざまずいて空しく出ている者であるのかが、ここで問われています。 「金持ち」は、自分の門前に横たわる「ラザロ」を見ていたはずです。 呻いている「ラザロ」を見ようとしなかった人です。 イエスは、神を愛することと隣人を愛するということを結びつけています。 「あなたの神を愛しなさい。 隣人を自分のように愛しなさい。」 聖書は、この二つの戒めに基づいているとイエスは言います。 「金持ち」は、この世の富と力を自分のために用いました。 イエスは、「この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言います。 神は、自分を貧しくする者の中にこそ立っておられるのです。 そのことが、逆転によって明らかに示されるのです。 「金持ち」は、この隣人を見ていたのに何もしなかったのです。 聖書の語るみことばを聞いていたのに、「神を愛し、隣人を愛すること」に生きることがなかったのです。 私たちは、訴えてやまない隣人に気づかされます。 その隣人の訴えに働かれているイエスの姿を知らされます。 私たちは、自らを誇らず、そのままの姿を差し出して、逆転の生涯を歩ませてくださる主イエスに委ねたい。 そして、その主イエスが語られたみことばに生きて賭けることです。 必ず、このみことばに立って生きて行く者とさせてくださいと祈る者に、変えてくださいます。
[fblikesend]「神の恵みによる実」 ルカによる福音書6章27~36節
「神の恵みによる実」 ルカによる福音書6章27~36節
ノーベル平和賞を受賞されたキング牧師は、「汝の敵を愛せよ」という説教の中でこのように語っておられます。 「憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのである。 憎しみは、憎む人、憎まれる人どちらの魂にも傷跡を残し、人格をゆがめる。 愛は敵を友に変える唯一の力である。」 イエスは、「あなたの頬を打つ者には、もうひとつの頬を向けなさい。」と語ります。 更に、そのために「悪口を言う者に祝福を祈りなさい。 あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と言います。 これはもう実行不可能である。 そう思うから、私たちはこのイエスのみことばから目をそらし、棚上げして横に置いてしまうのです。 私たちにできないからこそ、イエスは語ります。 私たちがどうしても赦すことができない、愛することができない相手であるから、神の力と神の業が必要なのです。 イエスは、「しかし、あなたがたは、敵を愛しなさい」と、群衆に取り囲まれている弟子たちに語られたのです。 群衆とは、悲しみや苦しみを背負いながら、なんとかして活路を求めようとイエスのもとについて来た人々です。 その一人一人の貧しさや飢え、悲しみや苦しみに取り囲まれた弟子たちに向けて、イエスはこのみことばを語られたのです。 イエスは、「自分を愛してくれる人を愛したところで」どんな恵みがあろうかと言います。 そんなことは、罪人でも同じことをしているではないか。 あなたがたの天の父は、悪人にも善人にも太陽を上らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方である。 相手の出方によって、相手の価値によって左右されない「愛」を与えてくださるお方である。 あなたがたは、「いと高き方の子となる。」 あなたがたは、神の子として受け入れられ、愛され、そのいのちを受け継ぐ者とされるとイエスは語るのです。 この「神の恵み」としか言いようのない敵も仲間もない「愛」を語るのです。 私たちは、自分を愛してくれるもの、愛する理由のあるものだけを愛します。 しかし、イエスは、十字架の福音によって、敵も仲間もない神の恵みに根ざして、愛しがたい者を愛していく道を開いてくださいました。 自らを殺そうとしている者たちのために「お赦しください」と執り成しの祈りをささげることによって、赦しがたい者を赦していく道を私たちに開いてくださいました。 頬を打ってくる相手に、「自分の愛」や「自分の頬」を向けたところで、人間同士のことにすぎません。 しかし、「神の恵み」に目指したイエスの「無条件の愛」を差し出そうとするなら、根本的に違います。 私たちが持ち合わせていないもう「ひとつの頬」です。 「神の恵み」が、私たちの欠けたるところに「神の愛」を注ぎ込んでくださる。 「我らに罪を犯す者を我らが赦す事ができるように」と祈る者にしてくださる。 私たちは、この神の憐れみと恵みに突き動かされて、もうひとつの「神の愛」という「頬」を、喜んで進んで差し出しましょう。 そのことを感謝して参りたいと願います。
「目が見えるようになりたい」 マルコによる福音書10章46~52節
イエスにとってエリコからエルサレムへ向って行くその道は、十字架への最後の道のりでした。 そこに、目の不自由なバルティマイがその道端に座り込んでいます。 道行く人々の袖にすがるしかない物乞いです。道端に座り込むしかできなかった人です。 その人が、人々の「ナザレのイエスのお通りだ」という声を聞いて、突然、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたのです。 人々が叱りつけ、黙らせようとしてもやめませんでした。 その時、イエスは立ち止まられた。 イエスの耳にその叫び声が届いたのです。 イエスは、「あの男を呼んで来なさい」と呼び求めてくださった。 「安心しなさい。 立ちなさい。 お呼びだ。」 まだ、目が見えるようになったわけでも、救われたわけでもない。 しかし、あのナザレのイエスが立ち止まって、私の叫びを聞いてくださった。 それだけではない。 私に呼びかけ、招いてくださった。 大勢の群衆の中に紛れる、それも道端に座り込んでいるだけの者を、イエスは見つけ出してくださった。 バルティマイは、喜び踊り震えたのです。 イエスは、叫び続けたバルティマイが自身の足で、立ち上がって喜んでみもとへ来ることを望まれたのです。 私たちは、こんなにイエスに叫び続けているでしょうか。 こんなに踊り上がって喜んでいるでしょうか。 道端に座り込んでいる私たちに、安心して恐れることなく、喜んでみ前に立つことをイエスが望んでおられる。 そのきっかけは、イエスを呼び求める叫びでありました。 たとえ大群衆に紛れる慌ただしい中、騒々しい中であったとしても、イエスの耳には届くのです。 バルティマイの切実な求めを百も承知であるイエスは、「何をしてほしいのか」と尋ねます。 バルティマイは、このイエスの言葉に促されて心を振り絞って「先生、目が見えるようになりたいのです。」と答えます。 驚いたことに、イエスは「行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されたのです。「わたしを憐れんでください」とイエスの憐れみにすがる一人の告白を、信仰であるとイエスは宣言されたのです。 バルティマイは、自分が訴えたことがまさか信仰であるとは考えもしなかったでしょう。 このバルティマイの言葉は、イエスが立ち止まって呼びかけ、みもとに引き寄せ、心の中にあった求めを引き出したものです。 バルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従った」とあります。 イエスに「行きなさい」と言われて、バルティマイの行った場所は、イエスの十字架への途上にある道のイエスの後でした。 私たちは、自分の乏しさ、貧しさを知って、イエスに叫び続けることが必要です。 目が見えない者であることを悟る必要があります。 私たちが目が見えるようになったことも、喜んで主に従うことができるようになったことも、主イエスの恵みです。 このイエスの憐れみにすがることに貧しくないかと、私たちは問われています。
[fblikesend]「ノアの信仰」 創世記7章6~24節
「ノアの箱舟」と聞いて、映画のように場面が浮かび上がってきます。 聞けば聞くほど、聖書の語るこの物語は神秘的でもあり伝説的でもあります。 天地創造のやり直しではないかと思わされるぐらい、雄大な神の出来事です。 しかし、この物語を、ただあらすじを聞くだけでは何も響きません。 ひと度、一人の人間として面と向かって神のみ前に立つならば、この物語の風景は一変します。 与えられた人生を担い歩む者として、神が直接語りかけるものとして聞き込む時に、この物語の豊かさが見えてきます。 イエスは、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。 人の子が来る場合も、このようである。」と語っています。 ノアの時代、神はこの世の快楽に酔いしれている人々の姿を見て、「わたしの霊はこのような人々の中に留まるべきではない」と警告します。 しかし、神は、ただひとり「ノア」という人物に目を留められました。 「ノアは主の好意を得た」のです。 ノアは、時代を一変させるような指導者でも、何かを究めた人物でもなかった。 神に目を留められる理由のない、「主の好意を得た」人物でした。 しかし、ノアは「神に従う無垢な人であった」。 「神とともに歩む人であった」。 「神に従う無垢な人であった」から、仰天するような神の声を聞くことができた。 「神とともに歩む人であった」から、常識では考えられない大洪水が起こるという神の声に従うことができた。 実に、信仰は、神のみことばに聴くことから始まるのです。 神の言葉が、ノアを導きます。 ノアは、この神の言葉に従っただけです。 人々から笑われ、変人扱いされても、みことばを信じ、神が働かれる事を待ち望んだのです。 みことば通りに、ノアがノアの家族と動物たちとともに箱舟に乗り終えた時です。 箱舟の扉が閉ざされたのです。 ノアが締めたのではなく、 神が戸を閉じられたのです。 このノアの箱舟は、神ご自身が造り、神が招き、神が救いの中に閉じ込めた神の業です。 神から、「さあ、あなたもあなたの家族もみんな一緒に箱舟から出て来なさい」と言われたノアは、箱舟に乗り込んできた時と同じように、家族と一緒に箱舟から出て来たのです。 すべてが大水に覆われた後の新しい世界に、家族と一緒に踏み出したのです。 そして、家族とともに先ず祭壇を築いて神に礼拝をしたのです。 この感謝の礼拝は、家族とともになされた「洪水の後の遺された者」としての献身の祈りであったのです。 私たちの群れもまた、遺された神の家族として、一緒に新しい世界に踏み出して、その務めを果たしていきたいと願います。
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