秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「変わらず、いつまでも見守るお方」 詩編121編1~8節

2015-01-04

 冒頭に「都に上る歌」とあります。 エルサレムに向う巡礼者たちへの門出の歌であったのでしょう。 これから始まる都詣での旅への不安や恐れが、出かけて行く本人たちにも、またそれを送り出す人々の方にもあったのでしょう。 新しい年の始めに、旅立つ人々の信仰の歌に耳を傾けたいと思います。 この美しい賛美の歌は、何かしら私たちの心をとらえます。 エルサレムへの巡礼の旅の歌が、私たちの人生の旅の歌に重なってくる。 地上の生涯だけでなく、人の死を越えて神のもとへの旅路の歌として聞こえてくるのでしょう。 私たちが「出で立つのも、また帰るのも」とあります。 それが「今も、そしてとこしえ」までも見守ってくださるという、「天地を造られた主」への「信頼」がここに歌われています。 かつて、主イエスは愛する弟子ペトロに、この「信頼」が失われないように祈ったと語られました。 イエスは、ペトロが失敗しないようにと祈ったのではありません。 「信仰が無くならないようにと祈った」のです。 信仰は、「天地を造られた主」からすべてのものが与えられる最大の恵みです。 この主との交わりが失われないようにと、主イエスは祈られたのでした。 予測もつかない人生の旅路に、詩人は「助けはどこからくるのか」と目を上げて、山々を仰いで確信します。 「わたしの助けは、天地を造られた主のもとから来る」と歌います。 私たちは果たして、この詩人と同じようにこの確信を、この賛美をもっているでしょうか。 
 「出で立つのも帰るのも」とあります。 口語訳聖書では、「あなたの出ると入るとを守られる」となっています。 出発する為には、何かを捨てなければなりません。 それを恐れていては、どこにも旅立つことができません。 「出ると入る」 古い生活から出て、新しい生活に入る。 人生の旅路とはこの連続ではないでしょうか。 アブラハムは、「あなたは生まれた故郷を離れて、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という「主の言葉に従って」、旅立ったとあります。 イスラエルの民も同じでした。 エジプトの奴隷の生活から、「奴隷の身分から救い出す。 あなたがたを贖い、あなたたちの神となる。」という主の言葉によって、新しい生活へと導き出されました。 そこから新しい旅路の信仰生活、荒野の信仰生活が始まったのです。 そこには、一人一人の旅立ちと戦いがあったのです。 両手に守りたいものを握りしめたままでは、主の助けだけを頼りにする信仰生活に入ることはできません。 その時です。 吹けば飛ぶようなものからではなく、「天地を造られた主」の養いが降ってくる。 運ばれてくる。 捨てたと思ったものが、新しい恵みとなってすべてよみがえってくるのです。 「天地を造られた主」は、同時に「わたしをつくり上げた主」でもあります。 詩人は、「主は、わたしを究め、わたしを知っておられる」と歌います。 私たちが主に知られていることが、主に愛されていることです。 ですから、この交わりを失ってはならないのです。 主は、ご自身の愛と真実を伝えるために、私たちを必ず身守り、助けられるのです。 その理由が、「わたしの信頼する主は、まどろむことなく、眠ることもないからだ」、「主が陰となって災いを遠ざけてくださるからだ」と歌うのです。 この方こそ、今もなお変わることなく働き続けてくださっている、十字架にかかってくださってよみがえられた主イエスであり、聖霊です。 「とこしえにまで、見守ってくださる」と言うのです。 私たちの地上の死は、終着点ではありません。 とこしえの世界の入り口です。 主は、この私たちの目には見えない「神の国」というとこしえに至るまで、見守ってくださるという愛の神です。 決して滅びない、いつまでも残る、最も大いなる愛の神です。

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「私たちのエルサレム」 使徒言行録 20章17~24節

2014-12-28

 パウロがミレトスというところに辿りついた時、わざわざ「人をやって」、エフェソの教会の人たちを「呼び寄せて」います。 招いたパウロも、また招かれたエフェソの教会の人たちもよほど会いたかったのでしょう。 エフェソが近いと言っても、ミレトスから約60キロも離れていたのです。 パウロは再会しただけに留まらず、この時が最後になると語り始めたのです。 パウロがエフェソの教会の人たちとの最後の別れに語ったことは、「私は、ただ主だけにお仕えしてきた。」 「私は、主の姿とみことばだけを伝え、教えてきた。」 「力強く証ししてきた。」ということでした。 エフェソの人たちは、一緒に辿って来た生きたパウロの姿を思い浮かべながら聴いていたことでしょう。 パウロは先ず、それらをどのように伝え、教えてきたのかを語ります。 「自分を全く取るに足りない者と思い」ながら、主に仕えたと言います。 自分を低くし、小さくして主に仕えたと言います。 そして、「涙を流しながら、この身にふりかかってきた試練に遭いながら」も、主に仕えてきたと言うのです。 パウロにとって、一人の人を救うための謙遜であり、涙であり、試練でありました。 それを、「公衆の面前」でも、「方々の家々」でも、「ユダヤ人にもギリシャ人」にも伝え、教え、証ししてきた。 「一人の人」を救うために、主に仕えてきたと言います。 この姿こそ、十字架のうえで痛みと侮辱と罵りを背負って、私たちの卑しさや醜さから解放してくださったイエスの姿です。 この主イエスの姿とみことばに揺り動かされたからこそ、パウロ自身が語ることができた。 エフェソの人たちが心を揺り動かされて聴くことができた。 ですから、エフェソの人たちは激しく泣いた。 人のために自分をさらけ出して差し出すパウロとともに、ひざまずいて祈った。 主イエスのみことばを指し示すパウロを抱いて、接吻したのです。 パウロは、「神に対する悔い改め」と、「わたしたちの主イエスに対する信仰」を伝え、教え、証ししたと言います。 これらは、私たちの力では得ることができないものです。 神からの恵み以外には受け取ることのできない、与えられるものです。 神は、あなたがた一人一人に霊を与え、「悔い改め」を与え、「信仰」を与える。 神を知る知恵を与える。 そのことを支えるのは、「神のみことば」であると、パウロはエフェソの人たちとの最後の別れに語ったのです。 その言葉が「今、神とその恵みの言葉にあなたがたをゆだねます」というみことばでした。 
 パウロはそれだけではありません。 「今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます」と言うのです。 律法を持たない、律法を守らない異邦人が救われるというパウロの教えなど到底受け入れることのできないエルサレムでは、激しくパウロに敵意を抱いています。 わざわざそのような渦中に入り込まなくてもいいのではないか。 そのような声が、自分自身からも周囲の人々からも聞こえていたことでしょう。 しかし、パウロは、「自分の決められた道を走り通します」、「主イエスからいただいた務めを果たします」と答えています。 その務めとは、「神の恵みの福音を力強く証しすること」であると言ったのでした。 パウロはいただいた恵みにとどまらず、霊に促されて、恵みに促されて、自らの務めを果たすために主イエスと全く同じようにエルサレムに入って行ったのです。 私たちにとってのエルサレムとは、どこでしょうか。 エルサレムを前にしてためらっているのでしょうか。 どのように主に仕え、従って行くのでしょうか。 何を伝え、何に信頼して歩んで行くのでしょうか。 そのことを問いながら、新しい年を迎えたいと思います。  

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「切り倒された木の根株から出た新しい芽」 イザヤ書 11章1~10節

2014-12-21

 2000年前の救い主の誕生を、それから更に約700年も遡って預言しその望みを抱き続けた旧約聖書の時代があります。 預言者イザヤは、ユダヤの国の平和を本当に求めた人物でした。 しかし、ある時はアッシリアの軍事力に頼り、またある時にはエジプトの支援に頼ろうと失敗したユダヤの王たちに、イザヤは失望します。 エッサイという小さな家系から出たダビデによって造り上げられたユダヤの王国は、切り倒されてわずかに残った切り株となってしまった。 しかし、そこには「残された切り株」がある。 そこに「新しい一つの芽」が萌え出で、「ひとつの若枝」が育つ。 その上に、「主の霊がとどまる。」と約束されたのでした。 
 主は、エッサイの血筋を引いたダビデが打ち立てた約束のユダヤの王国を、その民の不信仰のゆえに滅ぼされました。 ユダヤという大木を、主は惜しげもなく切り倒されたのです。 主は、ご自身がお選びになった人々がそのみこころに背く歩みを、見過ごされるお方ではありません。 それは、選んだ人々を裁くためではありません。 ご自身が選ばれた人々を、最後までその責任とご愛とご真実を貫くために切り倒されたのです。 不信仰は、主の前に切り倒されねばならなかったのです。 しかし、切り倒されなければならなかった私たちの不信仰のその上に、「新しい芽」を育むと言われたのです。 ひと度は、切り倒されて傷を受けて、望みが断たれたように見えるその切り倒された切り株に、「ひとつの新しい芽」が芽吹くと言うのです。 古い生き方を刈り取られてしまった私たちの切り株、傷跡、その痛みの上に「新しい芽」を植えて、新しい若枝を育ててくださると言うのです。 この望みを、イザヤはクリスマスから遡って約700年前に見出したのです。 それが今から2000年前に成し遂げられたクリスマスの出来事です。 私たちの本当の不信仰は、この主の約束、恵みを受け取ろうとしない、拒むことではないでしょうか。 この「新しい芽」、イエス・キリストの上には、「主の霊がとどまる」と言います。 「主の霊がとどまる」とは、「神、我らと共にある」ということです。 この主の霊には、三つの賜物があると言います。 「主を知るという知恵」、「主に従うという勇気」、主を知る知恵と主に従う勇気からくる「主を畏れ敬う姿」です。 「新しい芽」には、この「主を畏れ敬う霊が満たされる」と言います。 まさに、この姿こそ、イエス・キリストの生涯そのものではないでしょうか。 力に拠らず、自らを低くして、その誕生から十字架に至るまで主の霊に満たされて従順に歩んだイエスの生涯です。 この主を知る知識に満たされたお方が私たちに与えられた、それがクリスマスの喜びです。 
 イザヤの預言は、それだけではありませんでした。 その「新しい芽」であるイエス・キリストのとどまるところには、真の平和があると言います。 すべての命ある者の間に、神が良しとされる正しい関係があると言うのです。 真の平和は、争いがないということではありません。 力によってつくり上げられるものでもありません。 主を知る知識によって「主を畏れ敬う霊」によってつくり上げられる神との正しい関係でつくり上げられる。 イザヤは「その日が来れば」、大地は主を知る知識で満たされると言います。 これが救い主イエス・キリストが造り上げる平和です。 この平和は絵空事でしょうか。 理想論でしょうか。 小さな家庭、小さな交わりの中にも、主にあって「主を畏れ敬う霊に満たされる」、「主を知る知識で満たされる」、そのようなことが実現することは不可能なことでしょうか。 このクリスマスに、「切り倒された痛みの根株」に、このお方を迎え入れて、その上に主の霊が満ち溢れるようにと祈って参りたいと願います。

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「マリアの賛歌」 ルカによる福音書 1章46~56節

2014-12-14

 聖書は、クリスマスという出来事のなかに、イエスを胎内に宿しながら、戸惑いながら「みことば」の確かさだけに信頼して生涯を歩んだ、無力なひとりの女性の姿を描いています。 その女性がマリアであり、その時の彼女の賛美の歌が「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」でした。 「たたえる」とは、喜ぶということです。 「はしため」とは、女性の奴隷、卑しい女、無力な女という意味です。 「目を留めてくださった」とは、目を注ぎ続けてくださったということです。 マリアが賛美の歌声を挙げたのは、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたからです。 また、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」という感謝があったからです。 「力のある方が、わたしに偉大なことをなさったから」と知って、喜んだからです。 この時のマリアの壮絶な覚悟の姿を目の当たりにした者が、聖霊に満たされて言います。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と証言します。 
マリアのこの時の状態を思い浮かべてみてください。 ナザレという小さな町の、年端もいかない少女でした。そこに、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたとともにおられる。 マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と、神のみことばが一方的に告げられました。 マリアは戸惑い、何のことかと思い悩んだ。 とっさに、ユダヤの厳しい戒めがマリアの頭をよぎった。 婚約者によらない妊娠が、わが身に宿る。 何かとても困ることが起きると予感がして、不安を抱いた。 ですから、「どうして、そのようなことがありえましょうか」とみことばに反論したのです。 しかし、次第に自分の体の異常に気づいていったマリアは、変わっていきます。 これから身ごもって宿される子は、偉大な人物になる。 「あなたは神から恵みをいただいた」、「なんと幸いでしょう」、「主がともにおられる」、「神にできないことは何一つない」と、マリアは告げられたのでした。 神の業は、私たちの思いにおかまいなく、はるかに超えて一方的になされます。 選ばれて用いられる人は、人間の業から神の業へと歩み始める時、断ち切らなければならない苦しみがあります。 捨てなければならない痛みがともないます。 それでも、そこには神の恵みがある、喜びがあるとマリアは悟ったのでした。 マリアは、言われたように幸いなことが実現したから賛美をしたのではありません。 もしかしたら、婚約者に離縁されるかもしれない。 ユダヤの人々に石打ちの刑によって殺されるかもしれない。 それでもマリアは、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じることができました。 小さな町の身分の低い、この「はしため」にも目を留めてくださったという感謝に変えられました。 「力のある方が、わたしに偉大なことなさる」ことを知らされて、苦しみや痛みを乗り越える喜びに変えられたのです。 ですから、「わたしは主のはしためです。 お言葉通り、この身に成りますように。」と告白することができたのです。 この約束とそのための服従を、マリアは生涯を通して、十字架と復活に至るまで見届けるという大事な務めをいただいたのです。 そのために、マリアは未だ何も成し遂げられていない真っ暗闇の時に、自らを「主のはしため」と小さくして、沈黙して釈明もせず、喜びと感謝だけを賛美したのです。 

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「ヨハネに見る姿」 ルカによる福音書 7章18~30節

2014-12-07

 バプテスマのヨハネの誕生の次第が、イエスの誕生に絡めて語られています。 誕生の時だけではありません。 荒れ野で「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを授けるように」という神の言葉が降りました。 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」務めを、ヨルダン川沿いの荒れ野一帯でこのヨハネが担ったのでした。 ヨハネはまさに、神の言葉など語られようもない荒れ野でただひとり、神の言葉だけを頼りにした孤立無援の預言者でありました。 「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、バプテスマを民衆に迫ったのです。 そのヨルダン川に、イエスもまた民衆の中の一人として、ヨハネからバプテスマを受けるために来られたのです。 民衆は、もしかしたらこのヨハネこそ救い主ではないかと考えていたのかもしれません。 しかし、ヨハネは、ただ「来たるべき方」につなぐだけの存在として自らを語ります。 「わたしは水でバプテスマを授けるが、わたしより優れた方が来られる。 わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語ったのでした。 「来たるべき方」こそ、この世の不条理を根底から覆してくださると、信じて疑わなかったのです。 ですから、領主ヘロデの悪事を恐れないで責め立てたヨハネは、この時、そのヘロデによって牢に閉じ込められていたのです。 牢の中にあったヨハネが、二人の弟子を遣わしてどうしても確かめたかったことは、「来たるべき方は、あなたでしょうか」という問いでした。 イエスは、このヨハネの問いに、「見聞きしたことだけを伝えなさい」と使いの二人の弟子に言われました。 その見聞きした事実とは、「目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死に至った人、貧しい人」、これらの人たちのうえに起されている人間にはできないことが、今、ここで起されている。 その良き知らせが伝えられている。 これらの救いの事実は、一人一人の願いや期待によって引き起こされたものではない。 また、偶然に起されたものでもない。 長い間の父なる神の救いのご計画の中にあることである。 数多くの預言者たちによって知らされてきたことが、今、時が満ちて起されている。 私たちの勝手な願望や期待に左右されることのない、神の救いのご計画が、今、成し遂げられている、告げられている。 イエスは、今、牢の中にいるヨハネに、そのような事実から程遠いと思われる状況にあるヨハネこそが、この聞かされた事実を「信じる」かと問われたのではないでしょうか。 ヨハネの期待した通りの救い主であると言えば信じるのか。 何か保証を得たら信じるのかとイエスに迫られたのではないでしょうか。
 神の救いの業は、常に私たちの思いをはるかに超えるものです。 私たちの描く願いや希望は打ち砕かれます。 私たちの側に何の資格も保証もない、ただ神の憐れみ、神の恵みによってだけ成し遂げられることを知らされます。 イエスは、そのことを「わたしにつまずかないで、信じる人は幸いである。」と言われたのです。 荒れ野とは、信仰の戦いの場です。 そこに立ち続けて、「悔い改めにふさわしい実を結べ」とバプテスマを叫び続けたヨハネでした。 この「来たるべき方」を指し示すヨハネの叫びがあったからこそ、私たちは方向転換することができました。 指し示す務めを終えて姿を消していった旧約の世界のヨハネの姿があったからこそ、私たちは新しい契約の恵みの世界に浴することができました。 神のみこころは壮大です。 しかし、私たちは古い姿から新しい姿へと、この「来たるべき方」に従おうとして失敗し、倒れて、自らの弱さを知らされます。 その弱さにこそ、本当の強さが宿ります。 なぜなら、その弱さの中に「来たるべき方」、クリスマスの主が共におられるからです。

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「かけがえのない今日」 ルカによる福音書 4章16~21節

2014-11-30

 次第に成長されたイエスは、故郷ガリラヤのナザレからヨルダン川に出て来られました。 バプテスマを受けられるためでした。 すると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 そのイエスが、「聖霊に満ちて」、ヨルダン川からお帰りになりました。 そして、荒れ野の中を「霊によって」引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられました。 悪の霊の試みを受けられたイエスは、ことごとく退けて「霊の力に満ちて」故郷ガリラヤのナザレに帰られたと記されています。 イエスの歩みの始まりは霊の力に満ちて、その生涯は悪の霊との隣り合わせであったということです。 戻って来られたイエスは、「いつものとおり」安息日に会堂に入られた。 「いつものとおり」聖書を朗読しようとした。 「いつものとおり」会堂の会衆の前でお立ちになった。 イエスは、「いつものとおり」神の前に立ち続けておられた。 「いつものとおり」みことばのうえに立ち続けておられたのです。 私たちの罪は、この神のもとから隠れようとするところから、神のみことばに耳を傾けなくなるところから始まります。 
 当時の会堂では、立ち上がって聖書の朗読をした者がその箇所について座って教えを語ります。 「いつものとおり」イエスが聖書の巻き物を開いて読み終え、巻き物を巻き、係の者に返して席に座られた時です。 「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた」のです。 そのイエスが立ち上がって読まれた箇所がイザヤ書61章でした。 バビロニアに捕らわれていた人々が、長年の願いが叶えられ解放された。 喜び勇んでエルサレムに戻り神殿を再建することを願ったのでした。 しかし、あまりにも破壊され尽くされたエルサレムの廃虚を見つめ、人々は呆然としたのです。 いったいどのようにして、再び新しく興し直していいのか分からないほどの状況であった。 そこに「廃墟を立て直し、廃虚の町々を新しくする」と告げられた。 そのために、神のもとから遣わされるメシアが到来するとイザヤによって預言されたのです。 そこに、イエスは目を留められた。 どこから手をつけてよいのか分からないほどに崩されてしまったエルサレムを再び興し直す。 貧しい人に福音を告げ知らせる。 捕らわれている人に解放を告げる。 目の見えない人に視力の回復を告げる。 圧迫されている人を自由にする。 そのために、「わたしのうえに主の霊が満ちておられる。 主が油を注ぎ続けておられる。」 イエスは、このみことばに目を留められ、会衆の前で立ち上がり、読み上げて座られたその時です。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語り始められたのです。 取るに足りない存在である私たちのうえにみことばが成し遂げられるとは、いったいどういうことでしょうか。 みことばを耳にしただけでなく、それが実現すると語っておられるイエスご自身を受け入れる。 それだけではない。 そのイエスが、受け入れた私たちの中で脈々と息づいて働いておられると、私たちが信じている。 この事実以外にはないのではないでしょうか。 ユダヤのある村の会堂で、二千年前に語られたこのみことばが、十字架の死と復活によってすべての人々のうえに救いの業が成し遂げられました。 そして、今日の私たちが、そのことを信じて受け入れている。 「今、ここに」、みことばが成し遂げられている。 かつてイザヤを通して語られたみことばが、取るに足りない私たちのうえにも成し遂げられていることを、私たちは決して忘れてはならないのです。 アドベントこそ、この「今、ここに」を覚え賛美しつつ、起された出来事に感謝し、これから再び起されようとする希望を新たにする時ではないでしょうか

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「アドベントを前にして」 ヨハネの黙示録 21章1~6節

2014-11-23

 教会での一年の歩みは、クリスマスを待ち望むアドベントから始まります。 アドベントとは、「近づく、到来する」という意味のラテン語からきています。 私たちはこの時期、イエスのご降誕、最初の到来とともに、再び来られる到来の日を待ち望みます。 ヨハネの黙示録は、冒頭に「イエス・キリストの黙示」と記されています。 神のみ子であるイエス・キリストについて、隠されて覆われていたものが取りのけられて明らかにされた。 「すぐに起こるはずのことを、神がキリストにお与えになり、そして、キリストがこのわたしにお伝えになったものである。」 その「わたし」は、「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」、「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」と自己紹介しています。 政治的な犯罪者として島流しに遭ったヨハネが、「神のみことばを信じて従ったがゆえに」、また「イエス・キリストを主であると信じ告白し、証しをしたがゆえに」追放されて、この島に閉じ込められた。 しかし、そのヨハネが「イエスと結ばれて」、「イエスの苦難にあずかって」、「イエスに導かれて」、「イエスの忍耐にあずかって」、書き留めたものであると言います。 ヨハネの目には、「天には開かれた門が見えた。」 ヨハネの耳には、「見たこと、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」という神の声を聞いたと言うのです。 
 そのヨハネを用いて神が、「最初の天と最初の地は去っていく。 新しい天と新しい地が、神のもとから離れ、天から下ってくる。」という約束を、厳しい状況に置かれた者に向けて語られたのです。 周囲の状況が真っ暗闇で、ローマ帝国による恐ろしい恐怖と不安と痛みに必死に耐え忍んでいた各地のキリスト者を、どれほど慰め励ましたかと思わされます。 そこでは、「神が人と共に住み、人は神の民となる。 神は自ら人と共にいて、その神となる。 人の涙をことごとくぬぐい去ってくださる。 もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。 最初のものは過ぎ去ったからである。」と伝えられたのでした。 その意味は、神が私たちの歴史においでくださったイエス・キリストのことを語っているのです。 イエス・キリストご自身が十字架の苦しみを受け、肉を裂いて、血を流してくださった結果を語っているのです。 この約束の中に、私たちの世界は向っている。 必ず、そのようになるために、この約束が世界を支配し導いておられる。 私たちはいつしか、この目に見えない希望を求めることを失ってしまった。 いや、捨ててしまった。 目に見える希望だけを追いかけるようになった。 待つことができなくなってしまった。 神に期待しなくなり、自分を頼りにするようになった。 黙示録は、この私たちの姿に応えています。 最初の天と最初の地は去っていく。 神がつくられた世界はこのままでは終わらない。 必ず新しくされ、新しい都が神のもとから私たちのところに降ってくると言います。 そこでは、神と人とが一体となり、涙も死も悲しみも労苦もなくなる。 黙示録は、イエスが再び来られることに燃えるような期待を抱いています。 すべてを創造されたお方は、最後にはこの天と地を完成してくださる。 その最後の仕上げに再び来られ、新しい天と地をつくられる。 創造と救いと終わりの業の完成が成し遂げられる。 この希望の中に、この一年もまたアドベントから歩み始めたいと願います。

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「霊をもって、まことをもって」 ヨハネによる福音書 4章20~26節

2014-11-16

 イエスは、旅に疲れて井戸端に座っていたひとりのユダヤ人の姿をとって、「水を飲ませてください」とサマリアの女性に語りかけます。 彼女は、そっけなく答えます。 「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしにどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」 それもそのはずです。 ユダヤの人々はサマリアの人々を蔑んで、話をすることさえ避けていたのです。 そんな彼女にイエスはこう語ります。 「あなたが神の賜物をもっていたなら、あなたの方から生きた水を求めるだろう」、「あなたが今『水を飲ませてください』と言っているのがだれであるか分かっていたなら、あなたは生きた水を与えられたであろう。」 残念ながら、彼女はイエスの語る意味が分かりません。 
 このようにして始まった井戸端でのイエスとの出会いが、彼女を変えていきます。 彼女は、イエスから語りかけられる。 胸の奥深く隠していたものが次々と吐き出されていく。 素姓を隠して生きてきたすべてのことが、さらけ出されていく。 ついに彼女は、「この井戸に水をくみに来なくてもいいように、あなたの言う渇かない水をわたしにください」と語るまでになったのでした。 彼女は、自分のすべてを見抜くこのお方は預言者ではないかと感じながら、思いつくままにイエスに疑問を投げかけます。 私たちサマリア人は、この山できちんと礼拝をささげてきた。 そうであるのに、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべきところはエルサレムであると言う。 彼女は、礼拝すべき場所を問題にしたのです。 しかし、イエスは、「この山でもエルサレムでもない所で、私を遣わされた父なる神を礼拝する時がやってくる。 霊と真理をもって礼拝する時が来る。 今がその時である。」 イエスは、礼拝をする場所ではなく、だれを、どのように礼拝をささげるのかを問題にしたのです。 だから、「婦人よ、わたしを信じなさい。」と言われたのでした。 
 振り返ってみれば、井戸に向って水を汲みに来た彼女の歩みは、すべてイエスの前に出て行く道のりでした。 イエスが、その前に進み出て来る彼女を待っていた。 そして、『水を飲ませてください』と語りかけられた。 サマリア人として、また女性として距離を置こうとした彼女を、二人だけの立場に引き出して、イエスの問いに応えざるを得ないところに彼女を立たせた。 イエスの前に自分のすべてをさらけ出した彼女の姿こそ、イエスに招かれた父なる神への礼拝の姿ではないでしょうか。 「ここにくみに来なくてもいいように、渇かない水をわたしにください」という彼女の本当の願いに、「あなたが一番ほしいと思っているものをわたしから今、得ることができるだろう。」 だから「婦人よ、わたしを信じなさい」とイエスは言われたのです。 「キリストと呼ばれるメシアが来られて、わたしたちに一切のことを知らせてくださる」と漠然と待ち望んでいる彼女の希望に、それが「あなたと話しているこのわたしである」とイエスは言われたのです。 イエスは、父なる神は「霊と真理をもって礼拝する」民を求めておられる。 それが神のみこころである。 そうであるのに、ないがしろにされているまことの礼拝が再び回復されるために、神は新しく「霊と真理をもって礼拝する」民を起こされる。 それが私たち、イエスに結ばれて新しく創造された民なのです。 イエスのもとからくる霊に与かって礼拝をささげる。 事実として現れたイエスのまことのみことばとお姿によって礼拝をささげる。 まことの礼拝をささげる新しい民を起こすために、父と子と霊の神がこの地上でともに働いておられるという神の真理の事実に支えられて、場所ではなく自分自身をささげて礼拝をささげる。 そのことをイエスは、彼女を通して語られたのです。

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「わたしの愛する子という声」 マルコによる福音書 1章1~11節

2014-11-09

 マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り始めます。 この福音が、荒れ野から出発した。 荒れ野にひとりの人物が遣わされた。 その人物が、荒れ野からイエス・キリストの福音を「宣べ伝えた」。 そのことを告げるみことばが、「福音」と呼ばれています。 マルコによる福音書の最初の舞台は、預言されたように、約束通りに荒れ野でした。 花も咲かない、熱した砂地で渇いた荒れ野に、「水が湧きでる。 川が流れる。 野ばらの花が一面に咲く」ようになる。 何も見えない、聞こえないところにこそ、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられなければならなかった。 神によって遣わされたバプテスマのヨハネが、エルサレムの都ではなく、ヨルダン川のほとりの荒れ野で叫んだのでした。
 ヨハネが叫んだ相手は、ユダヤの全地方、エルサレムの住民でした。 自分たちこそ、神に選ばれた民である。 神の律法を固く守っている。 そう信じてやまないユダヤの人々に向って、「悔い改めのバプテスマ」を叫んだのです。 神に背を向け、「悔い改め」など必要がないと思っている人々に、神のもとへ帰る「悔い改め」を呼び求めたのです。 到底、そのような呼びかけに、自信満々のユダヤの人々が耳を傾けるはずがありません。 ヨハネは、ユダヤの中心地エルサレムから離れた荒れ野で、ただユダヤの人々が足を運んでくれるのを待っているだけの存在でした。 それでも、ヨハネは、荒れ野で質素な生活をしながら叫び続けることをやめませんでした。 神が、ヨハネを荒れ野に遣わしたのです。 神は、続々とヨハネのもとに人々を送ります。 送られた人々は、「罪を告白し、ヨルダン川でヨハネの授けるバプテスマを受けた」と書かれています。 ヨハネに、これほど多くの人を集める教えや魅力があったとは思えません。 ただ、「わたしより優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。 わたしは水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と宣べ伝えただけでした。 ヨハネを通して神自らが、ご自身のみことばを聞く民を召し集め、起こしたのです。 この荒れ野のヨハネの叫びに、ガリラヤのナザレにおられたイエスが立ち上がった。 ヨハネを通して招かれ、故郷を捨てて、ヨルダン川のほとりのバプテスマを受ける人々の群れに加わったのです。 イエスがメシアとして立つべき日、「その日」の到来をついにバプテスマのヨハネの荒れ野の叫びに読み取られたのでした。 悔い改めて神の民とされる人々が続々とヨハネのもとに引き寄せられ、水のバプテスマが授けられているそこに、特別の使命を自覚されたイエス・キリストが来られて、その群れに加わり一緒に水のバプテスマを受けられたのです。 イエスは、罪人とともにその中に入って、一緒にその罪を担おうとしてくださる。 その罪による弱さや醜さや足りなさ、悲しみや苦しみや絶望を共にかぶろうとされる。 私たちすべての人々との罪の連帯に生きて行こうとされたのです。 イエスは身をもって、これから向って行こうとされる自らの死を通して、ご自身の名が刻まれる聖霊のバプテスマを示してくださったのです。 イエスがバプテスマを受けられて、ヨルダン川の水から上がるとすぐに、天が裂けて霊がご自分に降ってくるのをご覧になりました。 天からは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。 「天が裂ける」とは、天と私たちを隔てていた私たちの罪が、神の側から裂けてなくなったということです。 このイエス・キリストの十字架の死に与かることによって、すべての妨げがなくなった。 そこに聖霊が降る。 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がかかる。 この約束のうちに、私たちはあります。 

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「サウルの戦いとダビデの戦い」 サムエル記上 17章31~47節

2014-11-02

 場面は、ペリシテとイスラエルという国の戦いです. しかし、実は、神に挑み神の名を侮辱する者と、神との戦いでした。 自分の力だけに頼る者と、神への信頼だけに頼る者との戦いでした。 「この戦いは主のもの」でした。 少年ダビデは、人に対してではなく、神を侮辱する悪の霊に対する素朴な憤りと、神に対する信頼だけでペリシテの大男の前に出向いて行ったのです。 ダビデにとっては、兜も、鎧も、剣も、すね当ても、槍も必要ありませんでした。 ダビデが持って行ったものは、自分の杖と、滑らかな石5つと、石投げ紐と、神への信頼だけでした。 杖は、羊飼であるダビデが羊の群れを追うためのものです。 石や石投げ紐も、羊を守るために普段使っているものです。 ダビデは、自分に勝ち目があるかとか、無謀な戦いではないかとか一切考えていません。 これは、神の戦いである。 神が働き、神がなされることである。 「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からもわたしを守ってくださるにちがいありません。」 この信仰だけで出向いて行ったのです。 このダビデの戦いは、あっけない結末でした。 石投げ紐を振り回して投じられた石が、大男の額を打って倒した。 イスラエルに勝利をもたらしたのです。 しかし、ダビデの戦いはそれで終わりません。 ここの戦いは、神の羊の群れであるイスラエルの民を、悪の霊である獅子や熊の手から日常生活の中の戦いによって守ったという出来事でした。 神は、このダビデの素朴な信仰を受け入れてくださって、「主の戦い」としてくださった。 そのために、ダビデは選ばれ、その後のイスラエルの王として戦いを歩んでいくのです。
 ここには、もうひとりの戦いがあります。 イスラエルの王であったサウルの戦いです。 「そのすべての持ち物を滅ぼし尽くせ」という主の命令に、良い物を残し、値打ちのない物だけを滅ぼし尽くした。 良い物を主のみ前にささげるようにという兵士のすすめに、神のみこころを少し曲げてしまった。 サウルのもとから、主の霊が離れていったのはこの時からでした。 「主の霊はサウルを離れ、悪霊が彼をさいなむようになった」とまで書かれています。 ぺリシテと戦うどころではなかったのかもしれません。 神にはみこころがあって、サウルを選ばれたのです。 私たちも同じです。 神の期待があって、私たちを招いてくださったのです。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだのである。」とイエスは言います。 問題は、その次です。 それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言っています。 このイエスの約束の中に、私たちはあります。 ですから、私たちは、恐れることも、傲慢になることもありません。 ただ、主の戦い、神の救いの業のためです。 サウルも少年ダビデの素朴な信仰に再び触れることができました。 結果は、自分が王であるイスラエルの勝利となりました。 しかし、サウルの本当の勝利は、これ以降の歩みであった筈です。 イスラエルの初代の王サウルとしての選びは、神のみ心のためであったはずです。 
 私たちは、主の思いと人間からでる思いが真っ向からぶつかる正念場に、いつも屈してしまいます。 ダビデの、サウルの、また私たちの戦いがあります。 しかし、神は私たちのそのままの信仰を受け入れてくださって、選んで、期待して、約束の中に生かしてくださっています。 私たちの信仰は、ただ神の恵みだけによって与えられているものです。 神が、私たちを離れることは決してありません。 いつも、私たちの方から主を捨てて、離れてしまうのです。 主の姿を見失うことなく、神のみこころだけに留まり続けることを願います。

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