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「宣教する礼拝」 ローマの信徒への手紙11章33~36節

2015-01-25

 ルカによる福音書によりますと、イエスの宣教は、荒野で悪の霊の誘惑を退けた後にガリラヤで始められました。 「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」、「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」、「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとされた」とあるように、イエスが行われた宣教の働きは、霊に満たされて、安息日の会堂における礼拝の場から始まりました。 イエスが立ち上がって、みことばを語り、教え諭された。 礼拝自体が宣教でありました。 それと同時に、そこから宣教が始められる場でもあったということです。 神から祝福された者が祝福する者に変えられる。 そして、その神の祝福が隅々にまで深く、広く行き渡っていく。 そのために、礼拝の民が祝福する者として用いられていく。 これが、イエスの宣教の始まりでした。 
 神が私たちを招いてくださって、その神の働きに私たちが応えて、神のもとに集められる。 そして、神の祝福に満たされて、再び送り出されていく。 これが礼拝です。 神は、私たちに、神の業である宣教の働きを委ねてくださっているのです。 礼拝自体が、神の宣教そのものなのです。 私たちがささげる礼拝は、神の招きに対する直接の応答です。 このことを体現した人物、パウロの賛美が今日の聖書箇所に示されています。 パウロは、ユダヤの律法の最高の教育を受け、ユダヤ人でありながらギリシャ文化の教育も受け、ローマの市民権をもつユダヤ人でした。 ユダヤの律法を守らないキリスト者を徹底的に弾圧した人物です。 そのパウロが、よみがえりの主に電撃的に出会い、その後今までとは真逆の生涯、異邦人への福音の宣教の働きを担った人物です。 人間的には、健康に恵まれず、その姿はみすぼらしく、生活は「天幕づくり」で身を立てていたとあります。 そのパウロが、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(コリント2:2)だけを語り続けたのでした。 ユダヤの長い歴史を通して、また誤解と中傷の渦巻く異邦人への困難な宣教を通して、神が痛みと憐れみをもって貫き通してくださったことに対する、パウロの驚きと感謝と賛美が、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」という言葉でした。 パウロが賛美している「神の富」とは、その豊かさです。 異邦人にまで、神の救いの手が差し伸べられる。 また、十字架の赦しによって、ユダヤに再び祝福の手が差し伸べられる。 その神の憐れみの豊かさです。 パウロが賛美している「神の知恵」とは、悪の霊、人の罪の妨害にあったとしても、どのような状況の中にあってもみこころを貫き通す、隠されていた神の憐れみです。 パウロが賛美している「神の知識」とは、私たち自身以上に私たちを知っていてくださるということです。 パウロは、イエスに招かれて、祝福を受けて、イエスの宣教に応えて歩んだ生涯を通して、この神の憐れみの豊かさに打たれたのです。 どのような時にも貫き通す、神の真実の見事さを知ったのです。 隅々まで私たちを知っていてくださるという神の深さに心打たれたのです。 「神を知ることは神を礼拝し、賛美することである」とカルヴァンは言っています。 パウロの賛美と礼拝は、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っている。 栄光が神に永遠にあるように、アーメン」となっています。 礼拝する、宣教する私たち自身が、この「神の富と知恵と知識」を知ることになるのです。 キリストにあって、キリストとともに礼拝と宣教をともにしなければ、私たちはこれが分かりません。 礼拝も宣教も、この神の憐れみに応えて行われる神の業なのです。 これに私たちは招かれています。



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