秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「変わらず、いつまでも見守るお方」 詩編121編1~8節

2015-01-04

 冒頭に「都に上る歌」とあります。 エルサレムに向う巡礼者たちへの門出の歌であったのでしょう。 これから始まる都詣での旅への不安や恐れが、出かけて行く本人たちにも、またそれを送り出す人々の方にもあったのでしょう。 新しい年の始めに、旅立つ人々の信仰の歌に耳を傾けたいと思います。 この美しい賛美の歌は、何かしら私たちの心をとらえます。 エルサレムへの巡礼の旅の歌が、私たちの人生の旅の歌に重なってくる。 地上の生涯だけでなく、人の死を越えて神のもとへの旅路の歌として聞こえてくるのでしょう。 私たちが「出で立つのも、また帰るのも」とあります。 それが「今も、そしてとこしえ」までも見守ってくださるという、「天地を造られた主」への「信頼」がここに歌われています。 かつて、主イエスは愛する弟子ペトロに、この「信頼」が失われないように祈ったと語られました。 イエスは、ペトロが失敗しないようにと祈ったのではありません。 「信仰が無くならないようにと祈った」のです。 信仰は、「天地を造られた主」からすべてのものが与えられる最大の恵みです。 この主との交わりが失われないようにと、主イエスは祈られたのでした。 予測もつかない人生の旅路に、詩人は「助けはどこからくるのか」と目を上げて、山々を仰いで確信します。 「わたしの助けは、天地を造られた主のもとから来る」と歌います。 私たちは果たして、この詩人と同じようにこの確信を、この賛美をもっているでしょうか。 
 「出で立つのも帰るのも」とあります。 口語訳聖書では、「あなたの出ると入るとを守られる」となっています。 出発する為には、何かを捨てなければなりません。 それを恐れていては、どこにも旅立つことができません。 「出ると入る」 古い生活から出て、新しい生活に入る。 人生の旅路とはこの連続ではないでしょうか。 アブラハムは、「あなたは生まれた故郷を離れて、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という「主の言葉に従って」、旅立ったとあります。 イスラエルの民も同じでした。 エジプトの奴隷の生活から、「奴隷の身分から救い出す。 あなたがたを贖い、あなたたちの神となる。」という主の言葉によって、新しい生活へと導き出されました。 そこから新しい旅路の信仰生活、荒野の信仰生活が始まったのです。 そこには、一人一人の旅立ちと戦いがあったのです。 両手に守りたいものを握りしめたままでは、主の助けだけを頼りにする信仰生活に入ることはできません。 その時です。 吹けば飛ぶようなものからではなく、「天地を造られた主」の養いが降ってくる。 運ばれてくる。 捨てたと思ったものが、新しい恵みとなってすべてよみがえってくるのです。 「天地を造られた主」は、同時に「わたしをつくり上げた主」でもあります。 詩人は、「主は、わたしを究め、わたしを知っておられる」と歌います。 私たちが主に知られていることが、主に愛されていることです。 ですから、この交わりを失ってはならないのです。 主は、ご自身の愛と真実を伝えるために、私たちを必ず身守り、助けられるのです。 その理由が、「わたしの信頼する主は、まどろむことなく、眠ることもないからだ」、「主が陰となって災いを遠ざけてくださるからだ」と歌うのです。 この方こそ、今もなお変わることなく働き続けてくださっている、十字架にかかってくださってよみがえられた主イエスであり、聖霊です。 「とこしえにまで、見守ってくださる」と言うのです。 私たちの地上の死は、終着点ではありません。 とこしえの世界の入り口です。 主は、この私たちの目には見えない「神の国」というとこしえに至るまで、見守ってくださるという愛の神です。 決して滅びない、いつまでも残る、最も大いなる愛の神です。



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