「最後の晩餐でなされたこと」 ヨハネによる福音書13章1~11節
これからの顛末がどのように向っていくのかすべてご存じであったイエスが、最後の夜を迎えて弟子たちとともに夕食をとられています。 食事をともにしている弟子たちは、本当に様々でした。 祭司長たちと取引をして銀貨30枚でイエスを裏切る手配を終えたユダがいます。 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。 あなたのためなら命を捨てます。」とまで言いながら、イエスを裏切ってしまうペトロがいます。 「あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。 どうして、その道を知ることができるでしょうか」と、イエスのみ心を尋ねず開き直るトマスがいます。 「わたしたちに御父をお示しください。 そうすれば満足できます。」と、イエスに要求するフィリポもいます。 イエスはこのような「世にいる弟子たち」に囲まれて、今、夕食の席についています。 イエスを裏切る、イエスを見離す、イエスを従わせようとする弟子たちに囲まれる孤独なイエスを憶えます。 「世にいる弟子たち」とは、私たちの姿です。 イエスが裁判にかけられている時、だれ一人イエスの証人に立ち上がる弟子はいませんでした。 十字架の処刑場に向かう道をともに歩いたのも、弟子たちではありませんでした。 イエスの両脇でともに処刑されたのも弟子たちではありませんでした。 イエスの遺体を引き降ろし、墓に納めたのもこの弟子たちではありませんでした。 イエスはすべてを分かったうえで、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。 その姿が、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」姿であったと、聖書は言います。 イエスは一人一人、順番に弟子たちの足を洗われたのでしょう。 イエスは裏切ることが分かっているユダの足をも洗っておられます。 イエスが洗うことを拒んだペトロの足をも洗われています。 弟子の足を洗うなど、先生であるイエスが行うようなことではないと決めつけるペトロに、「わたしのしていることは、今あなたには分からない。 後で分かるようになる。 もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と言われて、その意味を語られました。 イエスはたらいにくんできた水でもって、弟子たちの汚れた足を洗ってくださったのです。 そして、腰にまとった手ぬぐいで拭いてくださったのです。 そのために、イエスは一旦、上着を捨てられたのです。 ユダやペトロの汚れた足を直接触れてくださって、水で洗い、霊で拭きとってくださったのです。 「だれでも、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われた通りです。 イエスは水と霊によるバプテスマによって、私たちの「汚れ」を一人ずつひざまずいて水でぬぐい、手ぬぐいで拭いてくださったのです。 十字架によるこの贖いの業を、『上着を脱ぐ』と聖書は表現しています。 そして、新しい上着として『復活の命』を得ることを、上着を着ると表現しているのではないでしょうか。 ですから、イエスは「これが、あなたとわたしの関わりとなるしるしである」、「後で、霊なる力によって悟るようになる復活の出来事である」と語っておられるのです。 イエスのもとに集められたのは、罪人の集まりでした。 それぞれ異なる「汚れた足」をもつ一人一人でした。 イエスはだれ一人例外なくすべての「世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた」のです。 私たちの歩みは、このイエスの愛を受け取ることから始まります。 そして「互いに足を洗い合いなさい。 互いに愛し合いなさい。」と言われるイエスに従うなら、「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは言われるのです。 この希望と約束を憶えつつ、イースターの時を待ち望みたいと思います。
[fblikesend]「一粒の種になられて」 ヨハネによる福音書12章20~26節
「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」と書かれています。 イエスが十字架にかけられる、その直前です。 イエスが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入って来た、その直後です。 ユダヤ人ではない異邦人たちもまた、この祭りに礼拝するために来て、しきりにイエスに会いたがっています。 その願いを直接イエスに訴えるのではなく、ギリシアにゆかりの深いガリラヤの町ベトサイダ出身の弟子フィリポとアンデレにその願いを託します。 「お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです。」 これが異邦人たちの切なる願いでした。 その時に語られたイエスの言葉が、「人の子が栄光を受ける時が来た。」 そして、有名な「一粒の麦」のたとえであったのです。 聖書はなぜ、ギリシア人をここで登場させたのでしょうか。 これから起ころうとしている「イエスの十字架の苦しみと死」が、異邦人の救いにも関わりがある。 それが、「お目にかかりたい」と願うギリシア人にも、またすべての人の救いに拡がっていこうとしている。 フィリポもアンデレも、後の異邦人伝道に重要な役割を担った人物です。 「イエスの十字架の苦しみと死」が、エルサレムから異邦人の世界へ、全世界へと拡がっていこうとしている。 その理由は、一人の人間の「イエスの死」ではなく、よみがえられた「イエスの死」であるからです。 それが、終わりではなく、復活の命となって生きて働いているからです。 この「イエスの死」に結ばれて生きる者は、自分に死んで、イエスを復活させた命に生きることができるようになるからです。 このことが、死んでよみがえられたイエスを信じる者すべてに起こるからです。これが、福音の奥義です。
イエスは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せる」と言われました。 イエスが十字架に架け上げられる、それと同時に天に上げられる。 その時、イエスはすべての人を自分のもとに引き寄せる。 イエスが十字架に架けられ、死んで、葬られ、よみがえられて、天に上げられるとき、神のもとにすべての人が集められる。 そのことを、イエスは「一粒の麦」のたとえを用いて語られたのです。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 イエスは、一粒の麦が地に落ちて芽を出すという事実を、その一粒の麦が死ぬと表現しています。 一粒の麦が地に落ちて芽吹くと、多くのものが実るようになる。 ご自身の命を差し出して、死んで、ご自身の地上の命が失われるなら、そこから多くの人たちが新しい命に生きるようになると言われたのです。 もともと私たち人間は神に応えて生きる、神の息吹を吹き入れられて造られた者のはずです。 その私たちが神を見失い、地上のことだけに目や心を奪われてしまっている。 神を憶えて、応えて生きる霊性を捨ててしまっている。 この私たちを再び回復させるために、新しい芽を出し多くの実を結ばせるために一粒の麦となられて、地に落ちてご自身の地上の命を捨てなければならなかったのです。 神のもとを離れてしまった私たちの背きのために、また多くの霊なる命の実を回復させるためにご自身の死がどうしても必要であったのです。 自分を捨てることのできない私たちに替わって、イエスはどうしてもその背きを担って血を流さなければならなかったのです。 そして、私たちは、この「イエスの死」に与からなければならなかったのです。 その「イエスの死」によって、私たちは「イエスの復活」にも与かる約束をいただいたのです。 ですから、私たちはイエスに仕え、従っていく者として、愛する者のために「一粒の麦の種」になりましょう。 それは、その人のためでも、自分のためでもありません。 十字架の主イエス・キリストに仕え、従うためです。
「ろばの子に乗って」 ヨハネによる福音書12章12~19節
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 イエスは先頭に立って進んで行かれた。 それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と記されています。 イエスが、エルサレムに向かう姿にはただならない覚悟がありました。 その途上で、イエスは十二人の弟子たちを呼び寄せて、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。 わたしは祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人はわたしを侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。 そして、わたしは三日の後に復活する。」と告げました。 エルサレムに向かうことが、この十字架の苦難に向って自ら進んで行くという決断であったのです。 イエスを亡き者にしようとする祭司長たちや律法学者たちに、身の危険を顧みず、新しい王が出現したことをどうしても伝えなければならなかった。 商売の家となってしまったエルサレムの神殿を、父なる神を心から賛美する礼拝の場に取り戻さなければならなかったのです。 何度も血のにじむ祈りを繰り返し、ついに確信してエルサレムに向われたそのイエスの姿に、弟子たちは驚き、恐れをなしたのです。
それほどまでに覚悟してエルサレムに入って行かれたイエスの姿が、「ろばの子」に乗った姿でした。 ここでは、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」としか書かれていませんが、この「ろばの子」こそイエスが用意されたものです。 「向こうの村につながれていた」、「主がお入り用なのです」と言われた「ろばの子」です。 戦いに凱旋勝利した王にふさわしい「軍馬に乗った姿」とは程遠い「ろばの子に乗った姿」です。 軍隊に囲まれた行列ではなく、旅に疲れた弟子たちの行列です。 しかし、神の国の新しい王の姿は力に頼る姿ではなく、「ろばの子」に乗った姿でなければならなかったのです。 「ろば」は、風采の上がらない、戦いには役に立たない動きの鈍い存在です。 しかし、日常生活には欠かすことのできない、黙々と荷物を背負い、忍耐強く生きる象徴です。 向こうの村に繋がれて、縛られていた「ろば」がイエスによってほどかれた。 平凡な暮らしに用いられたありふれた「ろば」が、このイエスの支配される新しい国の出現のために用いられた。 黙々と、愚直に歩み続ける「ろば」が、イエスの凱旋の行進のために選ばれて、ほどかれて、用いられたのです。 新しいエルサレムの回復のために、新しい神の民の出現のために、この世の霊に縛られているご自身の民を解放するためです。 神の子として神の裁きを受けて、取り戻される人々に神の愛と神の意志を現わすためです。 かつてのエジプトからの解放を祝う過越の祭りの時、神の民にあふれかえる時に、真の解放がどのような王によってもたらされるのかを、イエスは「ろばの子」を用いて語られたのではないでしょうか。 そのイエスの向かう場所が、私たち人間を救い出すために、贖いの小羊として歩まれたイエスの十字架です。 私たちは、いったいどのようなイエスを迎えているでしょうか。 軍馬に乗った勇ましい王を期待し、その週の金曜日にはそのイエスを十字架につけた大群衆と同じでしょうか。 自分の権威や常識を守るために、イエスを抹殺したファリサイ派の人たちと同じでしょうか。 私たちは、「ろばの子」に乗ったお方を見ようとしないで、別の見栄えのよいものに乗った他のものを迎えてはいないでしょうか。 縛られているところからほどかれて、用いられて、召し出された「ろばの子」こそ、私たちの姿です。 イエスは、この弱い、風采の上がらないものを用いて、新しい神の国を起こされたのです。 「この世を恐れてはならい。 人に惑わされてはならない。 慌ててはならない。 人に仕えるために、自分の命をささげるために来た」と言われるイエスを私たちは迎えたのです。
「教会の務め」 エフェソの信徒への手紙 1章3~14節
「わたしは福音の使者として鎖につながれています」と、この手紙で自己紹介しているパウロは牢獄の中にありました。 神を呪ってもおかしくない、また教会の人びとに助けを求めてもおかしくないそのパウロが、神に向っては「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と、神への賛美を訴えています。 そして、教会の人びとに向っては、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、「神の祝福」をこの手紙の書き出しで述べています。 「神の祝福」は、自分たちだけで発見したり、見つけ出したりできるものではありません。 パウロは、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」ものであると言います。 どうしようもない傷のある者、汚れたままの者、死ぬべきはずの者が神が前もって定められた通りに、そのままの姿をもって選ばれて受け入れられる。 そして、その傷が癒され、汚れが拭い取られ、死ぬことのない者へとよみがえらされる。 御心のままに、神の子の身分を授けられるとパウロは言います。 私たちは、父なる神のご計画によって、その意志によって、イエス・キリストを通してあらかじめ選ばれ、集められ、この世から取り分けられた者です。 この一方的な神の恵みのうちに召し集められた者の群れこそが、教会です。 その集められた理由が、この「与えてくださった神の恵みをたたえるため」なのです。 父なる神の栄光をたたえる務め、神を賛美する務めが、私たち教会の群れに託されているのです。
教会は、エクレシアという言葉で言い表されています。 「呼ぶ」という言葉と、「外へ」という言葉が合わさった言葉です。 「呼び出された者の集まり、召し出された者の集まり」という意味です。 その召し出された者たちは、神に向ってはその栄光を賛美するため、礼拝し、仕え、ささげ、祈るために選ばれて集められたのです。 一方、すべての人びとに向っては、神の御心、神の業を伝えるためにイエス・キリストのもとに集められたのです。 このイエス・キリストを運ぶために召し出されたのです。 私たちの言う「礼拝と宣教」とは、まったく一体となったものなのです。 ですから、私たちが本当に神のみ前に出て、恵みに満たされ、感謝と喜びに溢れ、心から礼拝をささげていることこそ本当の宣教なのです。 そのために、「神は恵みをわたしたちのうえにあふれさせて」くださった。 「すべての知恵と理解とを与えて」くださった。 「秘められた計画をわたしたちに知らせて」くださったとパウロは言います。 パウロの言う「秘められた計画」とは、頭であるイエス・キリストのもとに一つにまとめられることです。 それは「神の栄光をたたえるため」である。 そのために選ばれて、聖霊という「神の国を受け継ぐための保証」の印鑑まで押されて、神の恵みを待ち望んでいる人々の所に遣わされていくことである。 自分たちと同じように、イエス・キリストとのつながりに生きるようにと、イエス・キリストを運んでいくことである。 自分たちの姿がたとえどのようなものであったとしても、神によってそのままの姿でもって用いられることであると、パウロははっきりと語っています。 ザアカイの救いが、ザアカイの家族の救いの始まりとなったように、神の恵みに対する私たちの感謝と喜びが家族に、またその周りの人たちに届き、ともにこの神の恵みに与かるようになるのです。 そのために、私たちは召し出されて集められたのです。 ですから、私たちのささげる礼拝には、まだ神をたたえることを知らない人々に対する「とりなしの務め」があります。 そうした人々を代表して、私たちは礼拝をささげているのです。 ですから、救われた喜び、祝福の恵みにつき動かされてささげる賛美と祈り、その礼拝こそ遣わされていく宣教となっていくのです。
「神に向っての旅」 フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節
パウロは、「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです」と告白しています。 このパウロは、今、牢獄に捕らえられています。 そして、涙ながらにこの手紙で訴えています。 その理由は、牢獄の中に閉じ込められている不自由な自分の身を嘆いているのではありません。 「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」から悲しんでいます。 パウロにとっては、キリストの十字架に生きているのか、それともキリストの十字架に敵対しているのかだけが問題なのです。 十字架の救いなど、自分にとって何のかかわりもない。 十字架を意味のないものと思っている。 十字架に目を向ける必要もないし、また価値をも見出すことができない。 そういう人たちが多いと嘆いているのです。 パウロは当時の社会の中で確固たる地位を得ていた人物です。 しかし、衝撃的なよみがえられたイエスとの出会いによって、この世でもてるすべてのものを失いました。 挙句の果てに、牢獄に閉じ込められ、イエスの故にその自由まで失いました。 しかし、パウロは言います。 たったひとつ、イエス・キリストを知った。 イエス・キリストの復活の力を知った。 よみがえられたイエス・キリストの命だけを得ることができたと言うのです。 「万物を支配下に置くことさえできる力によって」、「わたしのこの卑しい体を、イエス・キリストと同じ栄光ある体に変えてくださる」 その復活の力を知ることができた。 死者からの復活という希望を願い求めるようになったと告白しているのです。 本当の救いは、もはや、苦しみや悲しみがなくなるようなものではない。 苦しみや悲しみの中にあっても、このイエス・キリストの復活の命に結びつけられている。 支えられている。 死に向って、この世の救いを求めているのではない。 生きるために、イエスの命に与かって、イエスがおられる国、約束された故郷を目指している。 その確信に生きることができるようになったその喜びの叫び声が、「わたしたちの本国は天にある」という言葉です。 私たちは地上のどこかに属していながらも、神の国に属する者であるとパウロは言うのです。
誰が見ても不運としか思えない自身の姿をもってパウロは、フィリピの教会の人たちを励まします。 私の弱々しい姿を見てほしい。 この弱さの中にこそ、イエス・キリストの十字架の恵みを喜んでいる姿を見てほしい。 「皆一緒にわたしに倣う者になりなさい。 わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と言います。 神のもとに向って歩んでいる旅人の集まり、「皆一緒に」です。 赦された喜び、愛された喜びを知った者どうしです。 絶望しかないと思われたこの世に、よみがえられたイエス・キリストがともにおられるところがある、神の国が始まっている。 神と私たちの間にかけられた「イエス・キリストの十字架の道」 「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われた、このイエス・キリストの十字架の道。 これ以外に、神の国に入ることができない。 私たちは一緒に、このお方を待ち続けて同じ道を辿る旅人であると言っています。 「キリストと共に、旅人と共に」、そしてもうひとつ、パウロは「キリストによって」と言います。 「自分で」ではない、「行い」によってでもない。 「キリストによって」しっかりと立ちなさいとパウロは励ましているのです。 この旅の交わりにお誘いする。 呼びかける。 その喜びを証しする。 これが、私たちに求められている宣教です。
「土の器から溢れるもの」 コリントの信徒への手紙二4章7~15節
パウロはよみがえられたイエスに出会い、そのみ声に従い、その福音を伝える務めを直接いただきました。 そして、あらゆる困難を乗り越えて異邦人伝道に奔走し、この手紙の送り先のコリントの教会も含め数々の教会を立ち上げました。 パウロにとってみれば、自分の子どもたちのような群れであったのでしょう。 こうしたパウロの働きを喜ばないエルサレムの教会が、コリントに巡回伝道者を遣わして、「パウロは自分たちの推薦状をもった使徒ではない。 パウロの語る福音は、承認を得られていない」と動揺を与えたのです。 コリントの教会の人たちは、パウロに疑いを抱き始め、パウロから離反し始めたのです。 しかし、パウロは決して落胆しません。 「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」と反論します。 パウロは、エルサレムの教会が言うように、話がつまらない、知識も見劣りがする、弱々しいなど、いろいろなことを言われたのでしょう。 実際にそうであったのかもしれません。 しかし、パウロは怯みません。 「私は、自分について語っているのではありません。 よみがえられたイエスについて語っているのです。 ですから、四方から苦しめられても行き詰りません。 途方に暮れても失望しません。 虐げられても見捨てられません。 打ち倒されても滅ぼされません。」と訴えます。 パウロの苦難には、投獄されたこと、鞭で打たれたこと、石を投げつけられたこと、飢えや渇きなど肉体に関することだけでなく、「日々わたしに迫るやっかいなこと、あらゆる教会についての心配ごと」も含まれています。 このコリントの教会の心配ごとも、そのうちのひとつでした。
パウロの使徒としての務めは、エルサレムの教会の推薦状によって与えられているのではない。 よみがえられたイエスから直接いただいたものであると訴えているのです。 その務めをパウロはここで「このような宝」と表現します。 この「宝」のことを、「並外れた偉大な力」と言っています。 この「宝」が、神の福音のために選び出され、召されたこの「土の器」に納められていると言います。 確かに、パウロは持病があり、弱さやもろさをもった人間です。 そのような偉大な力を受けるにふさわしくない、どこにでもある土くれから造られる存在であるのかもしれない。 しかし、それでも神が造られたものである。 その弱い、ふさわしくないこの私に預けられているのは、神のもとからくる「宝」、「並外れた偉大な力」である。 それが、その「土の器」の穴や綻びや傷口からこぼれ出る。 大事なものは器ではない、その中に入っているものである。 「土の器」から溢れ出てくるものが大事であると、パウロは言います。 私たちは、「土の器」であることを嘆き、悲観します。 しかし、パウロはそこによみがえられたイエスの福音、「宝」があるなら、「土の器」は「土の器」でありながらも用いられる。 「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」この「土の器」は、イエスの命が現れるためである。 自分が今、死にさらされているのは、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためである。 苦難に見えるこの「土の器」の生涯の中で、イエスの命を表す務めが果たされることになる。 私はそのために選び出され、召された者である。 それによって、イエスの福音を信じる者が、イエスの命に生きるようになる。 それが、「土の器」の歩みであるとパウロは言います。 「主イエスを復活させた神が、イエスとともにわたしたちを復活させる。 そして、あなたがと一緒に御前に立たせてくださると、わたしは知っています。」という希望に、パウロは立っています。 「だから、わたしは落胆しません。 たとえわたしの外なる人は衰えていくとしても、わたしの内なる人は日々新たにされていく」と、パウロは確信しています。
「格闘する祈り」 創世記32章23~33節
ヤコブは、族長イサクの双子の兄弟の弟として生まれました。 ヤコブは、父イサクの目がかすんできたことをいいことに、兄エサウの家督の権利と父からの祝福をだまし取ったやましい過去を持っていたのです。 そのことを知った兄エサウは、「必ず弟のヤコブを殺してやる。」と怒りをもっていました。 この争いに、なんと20年もの月日が経っていたというのです。 そのヤコブに「あなたはあなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。 わたしはあなたと共にいる。」という神の言葉が臨んだのです。 ヤコブは、かつて激しい兄の怒りを避けるために伯父のところに20年間も耐えて身を置いていたのです。 この神の約束の言葉を受けながらも、兄の激しい怒りをかわすことに自らの知恵と持ち物の限りを尽くして、ヤコブは手立てを講じたのです。
神は、一時的な繕いに奔走する私たちの動きを敢えてとどめ、根本的な解決のために立ちはだかってくださいます。 私たちの妨げとなり、現状にしがみつく私たちを徹底的に砕くまで辛抱強くかかわってくださいます。 その時に初めて、もう神にすがるしかないという「祈り」に私たちはやっと到達するのではないでしょうか。 いつまで経っても人への恐れに苛まれるヤコブは、「あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。 ただ、兄が恐ろしいのです。 兄は攻めて来て、わたしを始め母も子どもも殺すかもしれません。 どうか、兄エサウの手から救ってください。」と祈ります。 そして、ついに、すべての人事を尽くして、恐ろしい川の渡し場を無事に、妻や子どもたち、持ち物すべてを渡らせたことを確認して、なぜかヤコブだけがその川の渡し場に残っていたのが今日の聖書箇所です。
「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。 兄エサウの怒りに直接向き合わなければならない所に、導き出されたヤコブでした。 人事を尽くしても何かが足らないと、そこにひとりで留まったヤコブがどうしても通らなければならない最後の備えを、神が用意されたのです。 この「何者か」は、神ご自身です。 今から迎えるであろう兄の怒りを前にして、どうしても受けなければならなかった神の挑戦、神が始められた闘いです。 ヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません」とその神にしがみつきます。 このヤコブが願った祝福は、自分勝手なものであったかもしれない。 しかし、この闘いは神によって始められた、神が備えて挑んでくださった格闘です。 夜明けまで続いた徹底した闘いでした。ヤコブは、神の名前を聞いて神を自分の手の中に納めようとしたが、それは叶わなかった。 逆に、ヤコブは自分が歩くために大切な「ももの関節」を砕かれた。 ヤコブがこの闘いから得られたものは、ただ「イスラエル」という新しい名前だけでした。 ヤコブという「押しのける者、乗っ取る者」という古い名前から、「神が支配される、神が守られる」という新しい名前「イスラエル」が与えられ、祝福された。 この体験をしたヤコブに、夜が明けて太陽が彼の上に登ったと書かれています。 ヤコブが願っていたものではなかったけれども、新しい名をもって神の赦しが与えられた。 ももの関節を砕かれ、自分勝手に歩き回ることもできなくなり、兄エサウと戦うことも逃げ出すこともできなくなったけれども、自分の才覚と冨の限りを尽くして備えるヤコブがついに、神以外に頼るものがなくなるまで変えられた。 これが、神の働き、神の備えでした。 かつての自分が砕かれて、新しいイスラエルとして歩み出した「よみがえりの朝」をヤコブは迎えたのです。 私たちもまた、イエス・キリストの十字架によって、新しいイスラエルの名を与えられました。 主イエスは祈ってしがみついて、私たちに替わって神との格闘を成し遂げてくださって、私たちに祝福が与えられたのではないでしょうか。
「方向転換の呼びかけ」 ルカによる福音書13章1~9節
イエスが群衆といろいろなお話をしている「ちょうどそのとき」です。 何人かの人が来て、イエスにふたつの出来事を知らせます。 ひとつは、ローマの総督ピラトがガリラヤ人を殺したということでした。 ガリラヤには熱心党という、ローマからの独立を掲げていた激しい集団がありました。 ピラトがローマ兵を用いて、ガリラヤからエルサレムの神殿に訪れている巡礼団に危害を加えるということがあったとしても、決しておかしいことではありません。 ガリラヤの人たちがそのような目に遭ったのは、何か罪を犯したからではないかと人々は批判していたのでしょう。 もうひとつの出来事とは、シロアムの塔が倒れて18人の人が犠牲になったということでした。 ピラトは、ユダヤで新しい用水路をつくろうとして、シロアムの池から水を引こうとした。 その工事の費用を、神殿にささげられた献金から捻出させようとしたと言われています。 そのようなローマの工事に協力したから、犠牲となった者たちは「神の罰」に遭ったのだろうと思ったのでしょう。 それに応えたイエスの言葉が、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。」 「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。」というものでした。 イエスは、人ごとのように語っているあなたがたも、この災難にあった人たちと同じである。 あなたがたが「罪を犯したからだ」と言っている人たちと同じであると言い、自らの姿に目を向けさせます。 「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語り、「実のならないいちじくの木」の譬えを語られたのです。 私たちは、正しい行いをしていれば滅びることはないという自分自身の正しさにしがみついています。 神の前で、自分の本当の姿を立たせることを恐れることがあります。 躊躇することがあります。 自分が神の前にどのような存在であるのか、そのことを棚に上げて、「あのガリラヤ人たちは」、あるいは「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は」と見ている自分があるのです。 イエスは、そのままでは、人は等しく神の前には、主のもとを離れた滅ぶべき存在である。 神の恵みなしには救われないと、イエスは言います。
三年もの間、「実のならないいちじくの木」をイエスは譬えで語ります。 そのいちじくの木は切り倒されることもなく、そこに植えられたまま赦されていた。 いちじくは、ユダヤの象徴です。 実を結ぶようにと、三年間も時間が与えられた。 まさに、イエスの公の生涯、十字架にかけられるまでの時が与えられたのに、実を結ばない。 「切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と語るいちじくの木を植えた主人に、園丁が頼みます。 「今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」と執り成します。 この園丁こそ、イエスご自身です。 そして、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と、自ら、その責任すべてを担って三年の公の生涯を終えて、十字架にかかってくださいました。 このイエスの復活後、弟子たちの新しい出発によって多くの実がなったのでした。 「決してそうではない」と責任や原因を求めない主イエスが、私たちの将来に向けて呼びかけます。 ただ父なる神の憐れみにすがるよう、神への信頼をもって、恐れないで神の審判の前に進み出るよう、そこには私がいると呼びかけておられます。 その声がする方に向きを直すこと、そのことを「悔い改める」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。 方向を向き直す「決断」を、ふさわしい時と場所で、主イエスは今日もなお私たちに呼びかけておられます。
「イエス・キリストにある生命の喜び」 フィリピの信徒への手紙4章2~7節
喜びの手紙と呼ばれているこの手紙の冒頭には、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜んでいます」とあります。 マケドニア州の活動拠点として誕生したフィリピの教会に書き送られた、パウロの公の書簡です。 その中に二人の女性の名前をわざわざ挙げて、パウロは獄中から教会に語りかけています。 二人は教会の立ち上げに尽力した人たちであったのでしょう。 どのような事態が起きていたのか、私たちには分かりません。 分かっていることは、二人はフィリピの教会になくてはならない人たちである。 その二人に、「主において同じ思いを抱きなさい」。 そのために教会の周りの人たちも、二人の和解のために祈って、働いてほしいとパウロが願っていることです。 「同じ思い」とは、いったい何でしょうか。 パウロは、「主において常に喜びなさい。」と、教会の人たちに直に語りかけるように勧めています。 私たちが感じる、自然とわき上がってくる「喜び」とは違うもののようです。 パウロは、「キリストにある喜び」、「聖霊によって与えられる喜び」と言っています。 キリストに結びついて、その恵みの中に身を置いている。 それがどこであろうが、目に見える場所などどこでもよいのです。キリストにおいて与えられる恵みの場所であるのかどうかが、パウロには問題なのです。 ですから、パウロは牢獄の中からでも「喜びなさい」と勧めることができるのです。
パウロは、「常に喜びなさい」、 周りの状況に拘わらず「いつも喜びなさい」と言います。 自由を奪われ、これから裁きを受け、処刑されるかもしれないパウロが「常に、いつも、どのような時にも喜びなさい」と言っています。 そして、「主において喜びなさい」と言います。 自分が「イエスが主である」と分かったから、自分がイエスに励まされたから「喜びなさい」と言っているのではありません。 キリストの命が自分の中に息づいている。 その命に自分が生かされて、赦されて、存在している。 そのことがパウロの喜びなのです。 たとえ、私たちがキリストを捨てて、飛び出して出て行ったとしても、そこもまたキリストの中にあるのです。 私たちは、そういう恵みの世界に生きています。 ですから、「主において、常に、いつも喜びなさい」とパウロは言うのです。 更に、パウロは「あなたがたは広い心がすべての人に知られるようになさい。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」と言います。 「広い心」とは、寛容や忍耐という意味合いです。 パウロは獄中にあっても、賛美の歌を歌って祈っていた。 囚人たちにそれを聞かせていたと言います。 ところが、真夜中に大地震が起きて、牢獄の戸がすべて開いてしまった。 囚人たちの鎖も外れてしまった。 いつでも、そこから逃げ出すことができるようになった。 しかし、皆、逃げないで、そこに留まっていたと言うのです。 てっきり囚人たちは逃げ出してしまったと慌てふためいた牢獄の看守に「自害してはならない。 私たちは皆ここにいる」と告げたのでした。 心を開いた看守に、パウロは「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたも家族も救われます」と語ったのです。 パウロたち囚人にとって、そこは主とともにある恵みの場所でした。 「広い心」をすべての人に知られるようにとは、このようなことではないでしょうか。 また、「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」ともイエスは言われました。 ですから、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげなさい」と言います。 これが、神がなさることへの「信頼」です。 神のみ心を尋ねる「祈り」です。 それによって、「人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」とパウロは言います。
「不安の中にある砦」 詩編46編2~12節
聖書が証言している歴史上の出来事を見ますと、今の私たちの「不安な時代」とまったく同じです。 自然の脅威におののいています。 この世の大きな力に圧倒され、虐げられています。 命をかけた、たったひとりの信仰の戦いもあります。 それらが繰り返されています。 しかし、聖書は、そこに、すべては神の言葉によって造られている。 神のみ心によって始まっている。 神がすべての秩序をつくり、支配しておられる。 そのことを、絶望の淵に立たされても神に信頼を置き続けた人々の姿によって聖書は語っています。 そこに神がおられる。 神が働いておられる。 神のみ心があると語っている信仰者の賛美、凱旋歌のような詩が、今日の聖書箇所です。 宗教改革を推し進めたマルティン・ルターは、この詩編46編に支えられました。 神はルターの人生を変えました。 彼の信仰を通して、世界を変えました。 絶望の淵に私たちが立たされた時、神はみ言葉を与え、信仰を回復させ、奮い立たせて、励ましと力を与え、ご自身のみ心通りに成し遂げられるのです。
詩編の詩人は、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と歌います。 口語訳聖書では「神はわれらの避け所また力である」と訳されています。 いくら地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るような、また海の水が騒ぎ、湧き返り、山々が震えるような驚きの出来事が起こったとしても、「わたしたちは決して恐れない」 なぜなら、「苦難のとき、必ずそこに神がいまして、助けてくださる。 神はその中におられる都は揺らぐことがない。 夜明けとともに、神は助けをお与えになる」からだと賛美しています。 イスラエルの民の苦難の歴史の中から響き渡って出てきた賛美の声です。 エルサレムを取り囲んだアッシリア軍を目の前にして、ヒゼキヤ王とイザヤの祈りによってイスラエルの民は、「恐れてはならない」という神のみ心を知りました。 主なる神の生きる川の流れ、命の水は途絶えることはありませんでした。 エルサレムの都は揺らぐことはありませんでした。 神がおられるところこそ、「神の都」であると知らされました。 神への信頼を取り戻して与えられたこの「神の平和」が、全地にもたらされたと歌っているのです。 「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。 主はこの地を圧倒される。 地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」 ですから、私たちは「主の為し遂げられることを仰ぎ見よう。」 「力を捨てよ、わたしは神」と言われる「万軍の主はわたしたちとともにいます。 わたしたちの砦の塔」と信頼を表明したのです。 この「力を捨てよ、わたしは神」というみ言葉は、口語訳聖書では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」となっています。 主は、何度も私たちに、新しく生まれ変わるために警鐘を鳴らしてくださっています。 そのような時にこそ、神がおられる。 神が働いておられる。 神が助けてくださる。 この主なる神へ信頼する信仰を、私たちは回復させていただきたいと願います。 イスラエルの人びとは、不安な時代、絶望の時代の「夜明け」を、主なる神とともに味わうことができました。 闇を経験しなければ、夜明けを味わうことなどできません。 この信頼を、ヒゼキヤとイザヤの祈りによって取り戻しました。 「静まって、神であることを知ること」によって回復させられたのです。 ルターも同じでした。 私たちの神への信頼の復興こそ、私たちの周りを変えていくのではないでしょうか。 この小さな回復が、神のみ心によって全地に「神の平和」を届けるのではないでしょうか。 この神の言葉こそ、イエス・キリストであるという新約の新しいイスラエルの時代を、そして新しいエルサレムの都に私たちは生きています。
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