秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「興されたフィリピの教会」 使徒言行録16章11~34節

2020-03-15

 フィリピの教会は、パウロたちがアジア宣教からヨーロッパ宣教へと大きく舵を切った重要な拠点です。 パウロはそのフィリピの町に最初に入る前に、聖霊の導きによってみ言葉を語ることが禁じられた場所がありました。 聖霊は私たちに様々なことを語りかけます。 その語りかけには、「してはならない。 しなくてもよい。 行かなくてもよい。 行ってはならない。」と、私たちが望んでいる道を閉ざすことがあります。 「今は動かなくてもよい。 じっと静かに神のみ言葉を待ち望め。」と、私たちをとどめようとされる時があるのです。 二度にもわたって行先を閉ざされたパウロは失意のうちに、その分岐点に立って幻を見るのです。 その幻は、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください。」と願う人の幻を見るのです。 この幻にパウロは、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」と言い、後先のことを考えもせずフィリピの町に入って行ったのです。 
 このパウロの確信はどこからくるのでしょうか。 神との交わり、祈りの中で神のみ心を感じ取る力が高められ、聖霊に導かれ肌で感じるようになるのでしょう。 そこで三人の人物と出会い、フィリピの教会の土台が据えられたと聖書は語るのです。 高級な紫布を商う「リディアという婦人」が先ず、神によって心が開かれたのです。 神は聖霊によって、福音を語る者を押しとどめたり、幻を与えて出向かせるのです。福音を聞く者にも、心を開かせ福音を受け止めるにふさわしく整えてくださるのです。 リディアは、「主が彼女の心を開かせたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 彼女もその家族もバプテスマを受けた。」と言います。 神は福音を語る者も福音を聞く者も、何を考え何を最も必要としているのかよくご存じで、自ら働いて導いてくださるお方です。 続いて、「占いの霊にとりつかれている女奴隷」と表現されている女性がパウロたちにまとわりついて、「彼らこそ、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と繰り返し叫ぶのです。 この世の霊は、イエスに触れると自らの本当の姿を熟知するものとして留まることができなくなり、イエスの霊によって追い出されていくのです。 パウロの「イエス・キリストの名によって命じる。 この女から出ていけ。」という言葉に、この女性は今まで取りつかれていたこの世の霊から解放されたのです。 彼女は、迷信や習わしやこの世の欲得に縛られていたものから解放された。 神のもとから離れさせようとする力から、神のもとに立ち帰ろうとする力に動かされるように変えられたのです。 この「女奴隷」を自分たちの利益のために利用していた主人たちは、使い物にならなくなった腹いせに、パウロとシラスを裁判にもかけないで、反ユダヤの感情のもと、治安を乱す者、暴動の扇動者としてふたりの身柄を拘束させたのです。 牢に拘束される、木の足かせをはめられる、鞭で打たれる、看守に厳重に見張られる不当な扱いに陥れられた二人は動じることなく、牢獄のもっとも奥で、「賛美の歌を歌って神に祈っている」のです。 ローマの国家権力の鎖や見張りでさえも、この二人の福音の救いの喜びを奪い去ることはできなかったのです。 何にもお返しをすることができないこの私たちが、ただ憐れみにより一方的な恵みにより救い出されるというこの喜びに勝るものが、この世のどこにあるでしょうか。 死を間近にしたときには、教えを学ぶとか、何かをするとかという時間が赦されていないのです。 そのようなところに追い込まれたパウロとシラスに、神のみ業が起こされたのです。 それに遭遇し、我をも失った「命令を受けた牢の番人、看守」は、神のみ業の前に震えながらひれ伏すことができたのです。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたも家族も救われます。」というみ言葉が当てられたのです。 そこにフィリピの教会は建て上げられたと聖書は語っています。

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「新しい礼拝堂という奇跡」 歴代誌下6章17~21節

2020-03-08

 ソロモンが長年の神の約束でもあった、イスラエルの民の念願でもあったエルサレム神殿を完成させて、神にその祝福を感謝しささげた「祈り」がこの歴代誌下6章に綴られています。 その社会的背景には、戦争に負けたこともある。 雨が降らなくなり、飢饉が起きるという自然災害も起きている。 疫病が流行って、様々な難病が拡がっている。 また、いなごやばったが大量発生し、様々な災いが起きている。 そのような状況の中で、イスラエルの大群衆を前にして、神殿の完成を感謝しその神殿を神にささげるという「献堂の祈り」とでも言うべき、神を仰いで祈りをささげる「ソロモンの信仰」に触れたいと願います。 
 イスラエルの歴史にとって、イエスが「野の花は、働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。」(マタイ6:29)と語られたほど、ソロモンが王として在位していた時ほど繁栄していた時はなかったのではないでしょうか。 この壮大な神殿が、次第に聖地化されていきます。 それでもソロモンは、すべては神が父ダビデに約束されたとおり成し遂げてくださったことだと群衆の前で祈るのです。 人の手を借りて造られた建物の姿を見るのではなく、その建物を強い意志と計画をもって成し遂げられた神の業を見るのです。 「わたしの父ダビデになさった約束を守り、その口から出た神の約束のみ言葉が、今日このとおり成し遂げられました。 これからもその約束が確かに実現されますように。」と祈り、その恵みの業に圧倒され大群衆の前で賛美するのです。 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は虚しい。」(詩編127:1)と歌われているとおりです。 「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)とパウロが語っているとおりです。 この「ソロモンの祈り」は、イスラエルの大群衆を前にした神殿の祭壇の前でささげる「祈り」でした。 いけにえをささげる、いけにえを焼き尽くす祭壇での「祈り」でした。 つまり、イスラエルの民の罪の赦しを神の前に願う犠牲をささげる「祈り」であったのです。 新約聖書の時代に生きる私たちにとっては、イエス・キリストの十字架の前に立って、自らの恥ずかしい姿を差し出して見てもらって、その過ちを裁いてもらって赦していただこうと祈る「祈り」と同じです。 ですからソロモンは、「主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕がみ前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。 昼も夜もこの神殿に、御目を注いでください。 ここは、あなたがみ名を置くと仰せになったところです。 あなたのお住まいである天から耳を傾け聞き届けて、わたしたちの罪を赦してください。」と、群衆を代表して祈っているのです。 戦いに敗れたときも、自然災害に襲われた時も、疫病に悩まされたときも、どんな災いも病苦もすべてはあなたのみ心を知るため、あなたのもとに立ち帰ってあなたの赦しを得て、あなたの道に従って歩み続けることができますように。」と祈っているのです。 そして、イスラエルの民だけでなく、イスラエルに属さない民のためにも、「大いなるみ名、力強いみ手、伸ばされたみ腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたは耳を傾け、その民があなたに叫び求めることをすべて叶えてください。」と祈っているのです。 戦争に出会うのも、災いに出会うのも、私たちが神のもとに立ち帰るために神の意図をもって興されたものでしょう。 災いと思われるものに出会った人も、出会わなかった人も、この神殿、祈りの家に来て互いに祈り合う、このソロモンの「祈り」が今、私たちに強く求められているのでしょう。 神のもとに立ち帰って赦していただくための「祈り」が求められているのです。

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「命のパン」 ヨハネによる福音書6章22~35節

2020-03-01

 イエスが5つのパンと2匹の魚をもって五千人の群衆の食事を賄うという奇跡を引き起こしたところに、取り残された群衆がいます。 そこには小舟が一そうしかなかったこと、その小舟に弟子たちだけが乗り込んで向こう岸に向かったことを、彼らは確かに見ていたのです。 そうであるのに、そこにイエスがおられないことを知った群衆はイエスを探し始めたのです。 そこに数そうの小舟がやって来て、それに群衆の代表者たちが乗り込んでカファルナウムに向かったと言います。 カファルナウムはイエスがガリラヤでの活動拠点としていたことから、当然の行動であったのです。 「群衆は、イエスのなさった奇跡を見て、この人こそ、世に来られる預言者であると思い、自分たちの王に担ぎ上げようとした」と言います。 五千人の奇跡を起こしただけでなく、小舟を使わず「湖の上を歩いて渡る」という考えもつかない姿をとって移動されたとヨハネによる福音書は語っているのです。 ですから、群衆は驚きをもって、また自分たちの意のままにならないイエスに対する不満を込めて、「先生、あなたはいつ、ここにおいでになったのですか」と語るのです。
 その群衆に、イエスは「あなたがたはお腹を満たすパン、朽ちる食べ物を求めている。 あなたがたは奇跡というしるしを起こしたこのわたしを探し求め、またしるしを願い求めている。 奇跡を起こしたわたしを遣わした神を見ようとしない。 神が遣わしたこのわたしを信じようとしない。 わたしが起こした奇跡というしるしだけを見ようとしている。」と語られたのです。 イエスの話を聞いた群衆は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」と語り、自分たちの先祖が荒れ野で神によって養われた食べ物、マンナのことを持ち出すのです。 イエスは言います。 「先祖たちが受けたマンナという食べ物は、わたしの父、神が与えられたパンである。 神がお与えになるパンは、この世の命を超えた、神の前に生きる霊の命を与えるものである。」 こう答えたイエスに、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と、自分たちが安心するために、明らかに自分たちが手にすることができるその見えるパンをください」と願ったのです。 そこで言われたイエスの言葉が、「わたしが、その命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して、飢えることはなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」という言葉であったのです。 
 イエスは「わたしが与えるものを取って食べなさい。 わたしが与える杯を飲みなさい。」と言っておられるのです。 私が、食べてもなくならないパンである。 神がお与えになるパンである。 私を通して語られる神のみ言葉を味わい、飲みなさい。 これを受け取るのか、受け取らないのかと招いておられるのです。 見て信じる信仰、納得したら信じる信仰、満腹すればそれでいい、自分の願いが満たされるならそれでいいという信仰から脱却して、奇跡を行う人のうちに働く神を見出しなさい。 今もなお依然として働いておられる神を見出しなさい。 そうすれば、あなたがたは飢えることがない、渇くことがない。 この養いに、私たちが招かれているのです。 そうすれば、あなたがたのうちに、いつまでもなくならない、湧いてくる食べ物としてとどまり養われる。 わたしを通して働かれる神を信じなさい。 神が遣わしたこのわたしを信じなさい。 そうすれば、あなたがたは飢えることがない、渇くことがない。 この養いに私たちが招かれているのです。 毎日、毎日、私たちを養うために、礼拝に神が招いてくださっているのです。 この神との交わり、神の養いに満たされて、この礼拝からこの世の与えられた場所に出かけていくのです。 

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「猶予の恵み」 ルカによる福音書13章1~9節

2020-02-23

 当時のイスラエルの社会的事件がイエスに報告されています。 「ロ-マ総督であったピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と記されています。 ガリラヤ人たちが神殿で礼拝しささげものをささげている時に、ローマ総督によって殺害された。 神殿の中で、礼拝をささげている信徒たちを殺されるままに神が赦しておられる理由があるのかと、イエスに詰め寄ったのでしょうか。 イエスは、神の戒めを守らない人は不幸と災いに陥ってしまうという考え方に縛られている人々とはまったく別の次元から諭します。 「そのガリラヤの人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。」と語られたのです。
続けてイエスは、「シロアムの塔で倒れて死んだ18人の災害の出来事をも人々に語るのです。 水道工事をするための塔が崩れて、18人の人が死んだ出来事は、「犠牲となった人々は、何かが災いとなってその罰によってこの災難に遭ってしまったのだ」と思っている人々にイエスは、「決してそうではない。」ときっぱり語られて、その後に、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と二度繰り返して発言されたのです。 これは、いったいどういう意味なのでしょうか。 果たして人災なのか、自然災害なのか判然としない災害が、今もなお起こっています。 しかし、何が原因でその災難を起こされたのかを正しくその意味を答えることは、だれにもできないでしょう。 ましてや、その災難に出遭う人と、災難を免れる人が分かれる理由を明確に答えることができる人などいないでしょう。 イエスは、「災難に出遭った人も、災難を免れた人も、神の前には同じである。 災難を免れたから幸いであった。 災難に出遭ったから災いであったというものではない。 災難に出遭ったかどうかは問題ではない。   災難は、災難を免れた人にも同じように向けられたものである。 本来は私たちすべてが引き受けなければならない災難を、代表して災難に出遭った人が引き受けてくださったのかもしれない。 神の前に立つひとりの人として、神の無条件の赦しがなければ生きてゆくことのできない存在であることを、災難に出遭おうが、出遭うまいが見つめ直さなければならない。 もし見つめ直して、神の憐れみによる、無条件の赦しに委ねることができるなら、「滅びることはない。」と、見つめ直す機会をすべての者に語っておられるのではないでしょうか。 
 イエスはそう答えて、「実のならないいちじくの木」の譬えを語られたのです。 「ぶどう園」の主人は神さまです。 神さまがおつくりになった世界こそ、「ぶどう園」です。 そのそばに植えられた「いちじくの木」こそ、「ぶどう園」での特別な務めを与えられたイスラエルの人々の姿です。 その世話をする「園丁」は神さまのもとから遣わされた主イエスです。 「三年もの間、実がなっていないいちじくの木を切り倒せ」と命じる「ぶどう園」の主人に、「園丁」は、「今年もこのままにしておいてください」と猶予を願い、「木の周りを掘ります。 肥しもやってみます。」と主人に執り成すのです。 イエスは私たちのために、猶予をくださいと申し出てくださるとともに、神の前に立つにふさわしく整えてくださると言うのです。 この時間の猶予はそう長くはないのです。 「園丁」であるイエスに出会っているその恵みの時に、向きを変える。 新しく歩み出す。 もし、向き直して神の恵みに委ねて生きるのであれば、今まで味わった痛みも、流された涙も、決して無駄になることはない。 この与えられた時間の猶予、この機会を生かしなさいと、イエスは「いちじくの木の譬え」を用いて語っておられるのではないでしょうか。

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「安息日の意義」 ルカによる福音書6章1~11節

2020-02-16

 創世記の2章に、「天地万物は完成された。 第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とあります。 モーセの十戒にも、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」とあります。 「安息日」は、神が創造したものをご覧になって良しと言って、造られたすべてのものがあることを喜び、祝福して憩われた日である。 私たち人間が、神によって造られた存在であること、神が造って良かったと喜んでいる存在であることを聖書ははっきりと語っているのです。 そのことを憶えさせるために、神は「安息日」を祝福して、私たちを招いてくださっている特別な日です。 だから、「安息日」には、あなたがたはその仕事の手を休めなさい。 神に造られたことを憶えて神と出会うために、神のみ前に進み出なさい。 神の祝福に、神の喜びに与るようにしなさいと聖書は語るのです。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は、この神の契約のしるしである「安息日」を固く守ることによって、神の祝福を自ら確かに手に入れようとしたのです。 神のみ心がどこにあるのかを見ようともせず、「安息日」を守ることだけに専念したのです。 むしろ、守ることのできない人を裁いてしまったのです。 彼らは、イエスの弟子たちが空腹のあまり麦畑で手を伸ばし、麦の穂を摘み取って、手でもんで食べたことを問題とします。 「なぜ、安息日にしてはならないことを行ったのか」とイエスたちを批判するのです。 イエスはこの批判に対して、聖書に記されているダビデのとった振る舞いを持ち出して、律法の戒めに縛られていることから解放されることを願って、「安息日は、人のために定められたものである。 人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27-28)と主張されたのです。 「安息日」こそ、神が創造の完成を祝って喜ばれたものです。 神が喜ばれたその喜びを私たちが分かち合うために、あるいは、造られたものが造られた恵みを喜んで感謝し、賛美するために神が私たちのために賜ったものです。 この神のみ心を憶え、味わう日です。 「人のために安息日が造られたのである」と、当時としては世界をひっくり返すほど革新的な言葉をイエスは語られたのです。
 更に、律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエスが「安息日」に右手が萎えていた人を癒したことをも問題とします。 イエスは彼らが監視している中で敢えて、右手が萎えている人に目を注ぎ、「立って、真ん中に出なさい」と言うのです。 一同が見ているなかで、「あなたたちに尋ねたい。 安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。 命を救うことか、命を滅ぼすことか。」と問いかけ、右手が萎えていた人に「手を伸ばしなさい」と語りかけ、元どおりの手に癒されたのです。 イエスは、神が求めておられることは何かと一同に迫ったのです。 「善を行う、命を救う」とは、神のみ心を行うということです。 神のみ心に従うということです。 私たちは様々な人生の諸問題を抱えています。 その解決を心から願っています。 しかし、それらの諸問題が解決したとしても、果たして私たちの本当の病い、私たちが犯してしまった過ちが赦されていなければ、また同じ問題が起こってくれば後戻りとなるでしょう。 イエスがそのような私たちを憐れんで目を注いでくださって、「立って、真ん中に出なさい」と呼びかけてくださっているのです。 私たちはイエスのみ前に出てひとりで立って、病んだ手を差し出さなければならないのです。 「安息日」は病めるところが癒され、神の国に赦されて招かれていることを喜ぶ時です。 呼びかけるイエスに、私たちが出会う時なのです。

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「福音の宣教」 使徒言行録13章1~12節

2020-02-09

 エルサレムでのキリスト教徒の迫害という苦難が一変して、福音がエルサレムから異教の地へ、ユダヤ人から異邦人へと伝播していくきっかけとなっていきました。 福音の担い手が、ペトロやヤコブなどの12使徒たちから、ギリシャ語を話すパウロたちへと移っていきます。 その働きの中心拠点となったのが、シリア州にあったアンティオキア教会でした。 その主な指導者の名前が5人記されています。 「バルナバ」はキプロス島出身のユダヤ人です。 エルサレム教会から派遣された人物です。 「ニゲルと呼ばれるシメオン」は、アフリカ出身です。 「キレネ人のルキオ」もまた、北アフリカの都市の出身です。 キレネはギリシャの植民地で、その人口の大部分をギリシャ語を話すユダヤ人が占めていたと言われています。 「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」は、キリスト教を迫害したヘロデ大王の子と同じ乳母によって育てられた人物です。 そのような身分の高い人物が、アンティオキア教会に加えられていたことに驚かされます。 「サウロ」は、キリキア州タルソス出身のローマ市民権をもつユダヤ人です。 ユダヤ名でサウロ、ローマ名でパウロです。 アンティオキア教会には、様々な人種、出身、身分の人たちが集められてひとつとなっていたことがよく分かります。 そのような状態のなかで、安息日に会堂に集まって、律法と預言者のみ言葉に聴き、断食して祈り、礼拝をしていたアンティオキア教会の人たちに聖霊が語りかけたと言います。 「わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」という呼びかけでした。 教会の中心人物であったふたりを、教会は神の呼びかけに応え祈りのうちに送り出すのです。 福音宣教の務めは、教会が祈り、賛美し、ひとつになっているところに聖霊の呼びかけが届き、そこに応えていこうとするところに起こされるものであることがよく分かります。 教会が思い立って計画してつくり上げるものではありません。 神はひとつとなってひざまずいて祈るところに、神は憐れんでくださってその祈りに応えてくださるのです。 私たちにみ言葉を求める渇きがなければならない。 喜んでささげる礼拝、聖霊の呼びかけに応える備え、包み隠さず自分を差し出す祈りがなければならないのです。 そこに神は聖霊という姿をとって出会ってくださいます。 私たちはそのために教会に招かれ、集められたのです。 
 ふたりは、最初の宣教地であるキプロス島で「偽預言者」と「地方総督」に出会います。 この「偽預言者」は「魔術」をもって、「地方総督」を信用させ自分の権威と信頼を勝ち取っていたのでしょう。 現代においてもこの「魔術」は形を変え、もっと巧妙に私たちを取り囲んでいます。 サウロはこの「魔術」を見破って、「あらゆる偽りと欺きに満ちている」と言います。 「魔術」と言われた「偽りと欺き」という言葉には、「餌をつけて魚を釣る、機会を巧みに操作し人の心をつかむ」という意味合いの言葉が使われています。 サウロはその「偽預言者」に、「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と言います。 サウロはかつての自分を告白しているのです。 目が見えなくなって初めて、自分の弱さを知らされる自らの体験を語ったのです。 「主のみ手がお前に下る」とは福音の訪れです。 「時が来るまで」とは福音の希望です。 「地方総督」は、サウロの言ったとおりに「偽預言者」の目が見えなくなった出来事を見て、「ふたりの語る主の教えに非常に驚き、信仰に入った」とあります。 「地方総督」はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとしていた人物です。 神に備えられて、ふたりの語る福音を受け入れて信じたのです。 福音の宣教とは、神に集められた者が整えられ、神の呼びかけに応えて、再び遣わされて行くことではないでしょうか。 

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「教会の祈り」 使徒言行録12章1~17節

2020-02-02

 律法の教えを厳しく守ってきたユダヤ教徒たちは、律法をないがしろにするキリスト教徒たちを異端として排斥していたのです。 ユダヤの領主であったヘロデ王はそれに目をつけ、ユダヤの人々の関心を得るため、急成長していったキリスト教徒の群れの中心人物であったヤコブを殺害し、ペトロも同じように殺害するために投獄していたのです。 何の手立てもない、最大の苦難を前にしてただ神に祈るしかなかった生まれたての教会は、ただ「ペトロのために熱心な祈りをささげていた。」 次の日にはそのペトロが牢から引き出されて、処刑されようとしているそのような時に、「主の天使がペトロの傍らに立った。 その牢の中を光で照らした。 ペトロのわき腹をつついて、眠りから起こした。」 そして、厳重に監視させられて、二本の鎖につながれ、眠りの中にあったペトロに、「急いで起き上がりなさい。 帯を締めなさい。 履物を履きなさい。 上着を着てついてきなさい。」と言うのです。 この呼びかけに突然起こされ、何も分からないままにペトロは、「幻を見ているかのようだったが、鎖がペトロの手から外れ落ち、番兵が見張っているはずの牢の鍵は外れ落ち、衛兵所を過ぎ町に通じる門がひとりでに開いた。 その呼びかけに従って、外に出てついて行った。 すると急にその主の天使はペトロのもとを離れ去って、ペトロは我に返り、本当のことが分かった。」と言うのです。 
 この「本当のこと」とは、「主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民衆のあらゆるもくろみから、このわたしを救い出してくださった」ことです。 それが神のみ心であったことを、ペトロが分かったと言うのです。 神を信じようとする人々を閉じ込め、厳重に監視し、その存在を赦そうとしない、神のもとから引き離そうとするこの世の力、それら一切のものから解放してくださって、「目を覚ましなさい。 耳を澄まして呼びかけに聴きなさい。 ついていく準備を今すぐしなさい。 必要なものを身に着けなさい。」と言っているのです。 ペトロは、自分が厳重に監視されていた牢からこのように救い出されたと事実を詳しく説明して、 これからエルサレムの教会の中心人物となるヤコブとその兄弟たちに、このことを伝えなさいと言ってその姿を消していくのです。 ペトロを取り逃がした番兵は処刑されていきます。 助け出されたペトロは、その後のヘロデの厳しい追及に晒されたことでしょう。 エルサレムの教会を引き継いでいく、これから始まるパウロによる異邦人宣教を引き継いでいくという大切な務めを担ったペトロは、その務めを果たすまで神に守られ、救い出されたのでしょう。 ところが、エルサレムの教会の人々は牢の中にいるはずのペトロが救い出されるとは信じることができなかった。 自分たちの目の前に立ったペトロを見て驚いたと言うのです。 あれほどペトロのために熱心に祈っていた人たちではなかったのか。 ペトロが救い出されて戻ってくるという祈りが叶えられると信じていなかったのかと疑問に思うほど、大喜びするどころか驚いたと言うのです。 エルサレムの教会の熱心な祈りの姿には、望みようがない時にもなお望みつつ、神の前に立ち続けた信仰の姿を見るのです。 信じようがないくらいに望みが絶たれてしまっている、そのようなときにも何でもおできになる神を仰いでうわ言のように祈ったエルサレムの教会の人々の信仰の姿を見るのです。 アブラハムもそうでした。 「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、神の約束の言葉に従った.」(ローマ4:18)のです。 「祈り」は神の前に立ち続けることです。 神のみ心を知るまで神を仰いで待つことです。 そのために用いられた「苦難」、与えられた「熱心な祈り」であったのでしょう。 「苦難」は解決するのではなく、解消していくものなのでしょう。 

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「赦しの言葉」 マタイによる福音書6章9~15節

2020-01-26

「主の祈り」は、先ず神への呼びかけから始まります。 「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて、次に、神に向けて三つの祈りがささげられています。 「み名が崇められますように、み国が来ますように、み心が行われますように」と、神への祈りで始まるのです。 その後で、私たち人間の営みについての祈りが三つ続きます。 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦してください。 わたしたちを悪より救ってください。」と祈るようにイエスは言われたのです。 私たち人間の些細な生活の中にある迷い、苦しみ、悲しみに、具体的に答えてくださるようにと祈る願いがあればあるほど、先ず神に向かって祈らなければならない。 神のみ前に立たずして、ただ私たち人間の側からだけの祈りであるならば、神との交わりのない空虚な祈りとなりかねないのです。 「主の祈り」は、神との交わりの」中で祈られる「祈り」であるとイエスは語っているのです。 本当に簡潔明瞭にして短い「祈り」です。 
 ここで忘れてはならないことは、「わたしたち」という言葉で祈る「祈り」であるということです。 わたしたち教会の群れがともに祈る「祈り」です。 それとともに群れに連なるひとりひとりの「祈り」、神のみ前に一人立って祈る「祈り」でもあるということです。 この六つの祈りに順番があると言うならば、なぜ、「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りが五番目の祈りに位置付けられているのだろうかと思います。 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りの後に、「わたしたちの負い目、わたしたちの罪を赦してください」と祈りなさいと言うのです。 イエスは荒れ野で、「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われたではありませんか。 順番が逆ではないでしょうかと言いたくなります。 イエスはこの「主の祈り」を教えた後に、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」というみ言葉をつけ加えています。 このみ言葉をどのように受け止められるでしょうか。
 私たちは、自分の犯してきた過ちは、神の憐れみによって一方的に赦されることを知っています。 「主の祈り」こそ、イエスご自身によって愛する弟子たちに教えられた「祈り」です。 イエス・キリストの名によって罪が赦されている者の「祈り」であるはずです。 そうであるなら、罪の赦しを願う「祈り」はすべての祈りに先立つ「祈り」であるはずです。 イエスは、私たちが生活の日常の糧を日々祈り求めると同じように、私たちの罪深さに敏感に気づき、イエスの名によって赦され続けなければならない存在であることを忘れてはならないと愛する弟子たちに教えられたのではないでしょうか。 ここに語られた「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」とは、人の過ちを赦すことを条件に、神が私たちの過ちを赦すと言っているのではないでしょう。 「主の祈り」は、イエス・キリストの十字架の生涯によって、イエス・キリストの名によって祈る「祈り」です。 イエスは十字架の上で、すべての人の過ちを担って、執り成して死んでくださったのです。 それが、父なる神のみ心だったからです。 「天の父があなたがたの過ちをお赦しになる」という赦しの約束の言葉が聞かされなければ、私たち一人一人の過ちの赦しなどないのです。 イエスが教えられた「主の祈り」は、この過ちが赦された者が祈る「祈り」です。 イエス・キリストの名によってすでに成し遂げられた「神の赦しの言葉」を受け取った者が祈る、赦された者どうしが祈る「祈り」です。 父なる神の赦しの言葉に聴いて、これを携えて、神のみ心を行わせる聖霊を身に受けてこの世に遣わされて行く者の「祈り」なのです。

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「正しいことを行う人」 使徒言行録10章34~48節

2020-01-19

 当時のユダヤ人は、社会的にも政治的にも支配されている者でした。 強大な力をもつローマの支配にただ従うだけの存在であったのです。屈辱と無力に苛まれた存在であったでしょう。 しかし、神によって授けられた律法を弁える者として、選ばれた民である「誇り」をもっていたのです。 ローマ人も含め異邦人とは異なるという独善に至って、決して交わろうとしない排斥の殻に閉じこもっていたのです。 一方、ローマ人は、支配する者として文化も武力ももつ優越感をもった存在でした。 神を知ろうとしない、自分の力だけを頼りに生きる無知なる存在であったのでしょう。 ユダヤ人とローマ人が互いに訪問し、交わることなど考えられない当時の社会であったのです。 神は、「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であったローマ人コルネリウスと、ガリラヤの漁師であったユダヤ人で、イエスに出会い従ってきたペトロを選び出します。 このコルネリウスが福音を受け取るために、次第に整えられていくのです。 「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、憶えられている。 だから安心して、これから告げるペトロというユダヤ人をあなたのもとに呼び寄せなさい。」という神の導きがあったのです。 コルネリウスのささげる祈りと賛美はもうすでに神に届いている。 届いているだけでなく、神ご自身に覚えられていると言うのです。 だから、安心して神の導き通りに委ねなさいと言われるのです。 そのコルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて、「今、わたしたちは皆、神が語らせる言葉を聞き逃すことのないようにと、神のみ前に進み出ている。」と語るまでに整えられていったのです。
 一方、すでに聖霊が降り、別人のようにつくり変えられていたペトロでしたが、未だにユダヤ教の教えに縛られ、社会常識によって神のみ心を知り尽くすことがなかったのです。 ローマ人のところに出かけて行くことなどできないとしり込みするペトロに、神は何度も何度も「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない。 ためらわないで、コルネリウスのもとに出かけて行きなさい。」とペトロを戒め、導かれるのです。 ペトロは次第に異邦人であるコルネリウスに福音を告げるにふさわしく砕かれていきます。 次第に整えられていったコルネリウスと、繰り返し戒められ砕かれていったペトロが、神の導きによって引き寄せられた出会いであったのです。 そこに、異邦人のうえにも、ユダヤ人と同じように聖霊が降り、神への喜びと賛美が生まれたと言うのです。 「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。」というペトロの告白が生まれ出ます。 この神に導かれた二人の出会いによって、分け隔てなさらない神が支配からも、従属からも、また独善からも、無知からも二人を解放してくださったのです。 そこから、人種もなく、国や文化の違いも乗り越えて、すべての人に神の賜物、聖霊が注がれることを悟って、イエスキリストを主と信じる「キリスト者」の群れが湧き立ったのです。 ペトロは、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる。 十字架に架けられ、復活させられたナザレの人イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが与えられる。」と語るのです。 「神に受け入れられる」とは、神との交わりが赦されるということです。 私たちの過ち、罪によって閉ざされていた神との交わりの門が開かれるということです。 神との交わりを妨げている罪の存在さえ気づかない、罪に落ちて罪に踊らされていることさえ分からない私たちを、罪の恐ろしさを本当に知っておられる神が、事前に赦しを与えて解放してくださっているのです。 「正しいこと」とは、神から注がれるその賜物、聖霊を喜んで受け入れて感謝し、賛美しその導きに従うことです。

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「託された必要なもの」 マタイによる福音書25章14~30節

2020-01-12

 イエスがこれから迎えるご自身の十字架での死を直前にして、愛する弟子たちとのお別れにこの「譬え」を語っています。 イエスはひと度、しばしの間、弟子たちの前から姿を消すことになる。 しかし、必ず戻ってくると語っています。 「主人は、これから旅に出かける。」と僕たちに言います。 「主人」とはイエスのことです。 「僕たち」とは愛する弟子たちのことです。 この「譬え」は、イエスと僕たちの関係について譬えているのです。 決して、人間どおしの「道徳」を譬えているのではありません。 主人がしばしの間の旅に出かける前に、「自分の財産を、僕たちに預けた。」と言います。 その財産を、「タラントン」という通貨単位をもって表現しています。 1タラントンとは、6000デナリオン。 1デナリオンは一日の賃金相当であったと言いますから、1タラントンと言えども相当な額の財産ということになるでしょう。 それを、「それぞれの力に応じて預けて、主人は出かけた。 しかし、かなりの日がたってから、主人が帰ってきてから精算を始めた。」と言います。 この「タラントン」とは何でしょうか。 「それぞれの力に応じて預けられる。 預けられたものを倍にして返す。 預けられたものをそのまま地の中に隠しておく。」とはどういうことでしょうか。 主人は、いったい僕たちの姿の何を見つめておられたのでしょうか。
 「タラントン」とは、主人のものです。 しばしの間だけ、僕たちに預けられたものです。 僕たちの所有物でも、予め備わっているものでもありません。 1タラントンだけでも豊かなものです。 主人は僕たちを信頼して、その「タラントン」と「時」をその務めに応じて託したということでしょう。 ところが、「忠実な僕だ。 よくやった。 もっと多くのものを預けよう。 わたしと一緒に喜んでくれ。」と言われた僕と、「怠け者の悪い僕だ。 預けられていたものを取り上げられる。」と言われた僕とに分かれました。 主人は預けたものの成果をご覧になって喜ばれたり、悲しまれたのではありません。 それぞれの務めに預けられたことを喜んで用いた僕の姿を喜んでおられるのです。 主人は、その喜びをともに分かち合いたいのです。 そうではなく、自分がなくしてしまったら主人に咎められる、責められることを恐れて、主人のみ心に応えることができなかった僕の姿に、主人は悲しみを覚えたのでしょう。 一緒になって喜びを分かち合いたいと願う主人のみ心を知ろうとしないで、自分の身に迫ることだけに目を向けた僕の姿、むしろ、預けたものを減らすことのなかったことを褒めてもらおうとした僕の姿を、主人は悲しんだのです。 イエスのこの厳しい言葉は、神の御心を忘れ、自分の身を守るために神の言葉の形だけを守ることに専念した当時のファリサイ派の人々の姿に向けた悲しみの言葉でしょう。 
 「主人が帰ってくる時がやがてくる。 精算を始める時がくる。」のです。 その時こそ、イエスとともに喜びを分かち合う時です。 神の国が訪れる「その時がやってくる」と、イエスは愛する弟子たちにしばしの別れをこの「譬え」で告げておられるのです。 ご自身が大切にしておられるものを託して預ける。 再び出会うとき、預けられたものを用いた恵みを持ち寄って互いに喜びを分かち合おうと、呼びかけておられるのです。 預けられるものは、イエスを通して注がれる一方的な恵みです。 私たちの身に備えられる資質や才能といったものではありません。 私たちの忠実さや努力によって勝ち取られるものでもありません。 神の持ち物です。 神のご用のために用いられるものです。 ですから、この預けられたものは自ら必ず、預けられた人を用いて神のみ業を成し遂げるのです。 そのための「しばしの間」と「タラントン」と「恵みの喜び」なのです。 

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