「神の子として迎えるクリスマス」 ルカによる福音書1章26~38節
神はマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む。 その子の名をイエスと名付けなさい。」と言われました。 結婚前のマリアにとって子どもができるとは、父親のいない子を産むということです。 当時のユダヤの社会では、訴えられれば厳しい律法によって姦淫の罪として石打ちの刑に処せられるのです。 そのような突然の、自分の人生を大きく揺さぶる知らせがマリアのもとに舞い込んだのです。 いくら、「その子は偉大な人になる。 神の子と言われるようになる。」と言われても、マリアにとってはそれどころの話ではありませんでした。 ただただ困惑するだけです。 「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」と応えるのが精いっぱいであったのでしょう。 マリアにとって、このクリスマスの出来事は常識を超えた、信じることのできなかった驚きの出来事でした。 私生児を産むという世間からの誹謗、中傷があったとしても不思議ではない出来事でした。 これから一生涯、この重荷を背負っていかなければならい窮地に陥った知らせでした。
常識と理性によって、不安のうちに応えるマリアに神は挑みます。 「聖霊があなたに宿り、神の力があなたを包む。 だから、生まれるその子も、この世から取り分けられた聖なる子となる。 神の子と呼ばれるようになる。」と言われたのです。 マリアは決して、神の前に素晴らしい決断をしたわけではありません。 告げられた知らせに思い巡らし、悩んだのです。 将来に不安を覚え、悩み、踏ん切りがつかなかったのです。 これは誕生の時だけではありませんでした。 イエスが成長し、その人間には理解できない振る舞いに戸惑い、そのたびに人間の常識によって親としての心配をし、イエスをたしなめようとまでしたのです。 それでもマリアには、他に頼るべきものはありませんでした。神の約束の言葉しか、頼るべきものは残されていなかったのです。 ですから、思い巡らし、何も分からないまま、ただ語られた「聖霊が宿る。 神の力に満たされる。 その子は育まれ、神の子となる。 このことは、何千年も前から預言されてきたことである。」という神の約束の言葉に、自らを委ねていくしかなかったのです。 それが、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」という言葉になったのでしょう。 イエスの目には、この母マリアの姿はどのように映っていたのでしょうか。 ある女性がイエスを賞賛して、「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は、なんと幸いなことでしょう。」と言われたイエスは、「むしろ、幸いなことは、神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ1:28)とだけ答えられました。 イエスは、産んだ母親としてマリアは幸いであったと言っておられるのではないのです。 思い巡らし、不安の中にたたずんで、それでもなお、「お言葉どおり、この身になりますように」とみ言葉に聴いて従った母マリアを幸いであると言われたのです。 神のみ言葉を聞いてその約束に従い、その約束のうえに立って生涯を生きること、これほど幸いなことはないと言われたのです。
このイエスの誕生物語を詳細に書き記したキリスト者たちは、歴史の中に胎児として現れ、人間の代わりに裁かれ、私たちの過ち、醜さ、弱さを死んで贖ってくださったイエス、よみがえられて、神のもとに戻る道を切り開いてくださった「霊なるキリスト」を賛美しているのです。それが神の約束であった、神のご計画であった、そこに神のご愛とご真実があったと証言しているのです。 マリアと同じように、信じることができない、説明することができないような出来事に遭遇して、それでもなお神のみ言葉に立って生きる生涯を賛美しているのです。 母マリアが宿した胎児こそ、このよみがえって霊なるキリストとして私たちの中に宿ってくださるイエス・キリストです。 このお方との交わりに生きる生涯に、私たちは招かれたのです。
「クリスマスの驚き」 イザヤ書53章1~5節
預言者イザヤは、救い主メシアは「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように主の前に育つ」と預言しています。 ユダヤ教の中から起こされてきた最初の頃のキリスト者は、「十字架に架けられて処刑されて死んだはずのナザレの人イエスが、墓の中にない。 よみがえったとしか言わざるを得ないように、自分たちの前に姿を現してみ言葉をかけられ、一緒に食事し、交わり、共に生きてくださった。」と証言し始めたのです。 イエスというひとりの人間が死から復活した。 それは神の起こされた出来事であった。 このお方こそ、神ご自身のもとに立ち帰る人間の歩む「道」となってくださった。 見ることも、聞くこともできなかった暗闇の世界を照らす「光」となってくださった。 肉体の死に縛られている世界から解放されて、神のもとに憩う新しい霊の世界に生きる「命」となってくださった。 そのことに最初に気づかされたキリスト者たちにとって、現在の私たちと同じようにイエスの「復活」は驚きの出来事であったのです。 いったいどのような力が働いて、どのように成し遂げられたのか、説明することのできないことであったのです。 この驚くべき「復活」という神の救いの出来事を見つけ出したキリスト者が、このメシアの誕生、イエスの誕生について福音書にこう証言しています。 イエスの誕生は、名も知られていないヨセフとマリアというありふれた二人に赤ん坊として与えられた。 生まれる場所さえ用意されていなかった、粗末な扱いであった。 しかし、ありふれた大工の息子として育てられたその子どもが、霊の導きによって人とはまったく異なる成長をした。 親でさえその振る舞いを理解することができなかった。 苦しみ、悲しみの中にある人、虐げられている人の側に立って、その不思議な力から病いを癒し、心の平安を与えた。 人々からは、このお方こそ自分たちの国を再び復興させるお方として期待され、担ぎ上げられるようになった。 しかし、自分たちが望むものではないと分かった人々は、今度は手のひらを反すように見捨て、軽蔑し、十字架という惨い処刑によって殺害した。 まさにイザヤが預言したように、「見るべき面影も、輝かしい風貌も、好ましい容姿もない、軽蔑され、見捨てられた」存在でとなったのです。 「神の手にかかり、神の罰によって打たれたから、苦しんでいる」姿に見えたのです。 それは、隠された神のみ心でありました。 「わたしたちが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(コリント一2:5) 十字架に架けられたイエスの姿こそ、神がこの世に遣わしたご計画であったのです。 私たちは、この神のみ心に従ってみようとしないから、自分たちの望みだけに頼ってみようとするから、イエスの振る舞い、イエスがなされる姿を受け取ることができないのです。 受け取ることが難しいのは、イエスの十字架を受け入れることが難しいのではないように思います。 イエスの十字架の姿は、私たちのすべての弱さ、醜さ、過ちを担ってくださった姿です。 自分の醜い姿こそ、その姿であることを認めることが私たちには難しいのです。 自分の弱さ、醜さを見つめざるを得なくなる恐れを感じるからです。 イエスの十字架の前に私たちが立つなら、その姿を突きつけられるからです。 暗闇は、光に照らされることを恐れます。 自分が暗闇であることを認めたくないのです。 罪は、神の正しさの前に出ることを避けます。 自分の醜さを晒したくないのです。 イエスは私たちに替わって、神に砕かれるため、懲らしめを受けるために十字架に架けられたのです。 私たちに神との交わりを回復させるためです。 それが神のみ心であるからです。 イエスの誕生の出来事は、この隠されていた神の救いの業を、驚きをもって「十字架に架けられた」醜いイエスの姿とともに見つめなければなりません。
[fblikesend]「どこまでも離れない神」 創世記45章1~13節
ヨセフは、族長ヤコブの息子12人の11番目です。 この異母兄弟の息子たちによって、12部族のイスラエルの民が形づくられました。 兄たちは、父ヤコブにもっとも愛されていたヨセフを妬み、憎んでいました。 兄たちの様子を見てくるようにと父に言われたヨセフが、父の羊の群れを飼っている兄たちのところに近づいてきたのを好機に、兄たちは「ヨセフを殺して、穴に投げ込もう。 あとは、野獣に食われたと言えばよい。」などと相談までしていたと言います。 兄たちはヨセフの着ていた晴れ着をはぎ取り、捕らえて穴に投げ込んで、イシュマエル人に売ろうとしたのです。 そして、ヨセフの着物を殺した雄山羊の血に浸して、野獣に食われたのだと見せかけ父ヤコブを悲しませたのです。 ところが、エジプトに売られてしまったヨセフが、今や、そのエジプトで国を治める者とまでになっていたのです。 聖書は、「主がヨセフと共におられたので」という言葉を再三用いて、ヨセフの行ったことはすべてうまく事が運んだと言います。 エジプトでは、ヨセフがエジプトの王が見た夢を説き明かして、7年の豊作と7年の飢饉が神によって起こされることに気づいて、豊作の時に食糧をできる限り蓄え、飢饉に備えるようにしていたのです。 その食糧の監督を一手に行っていたのがヨセフだったのです。 飢饉に見舞われた所から食糧を求めてやってくる人々が、ヨセフのもとに押し寄せていたのです。 なんとそこに、イスラエルから、自分を売ってしまったその兄たちが食糧を求めてやってきたと言うのです。
一目で、自分の兄たちであること知ったヨセフは、気づかれないように兄たちを試します。 「この国を探りに来たに違いない。 もし本当に正直な人間だと言うのなら、兄弟のうち一人を牢獄に監禁しなさい。 他の者は皆、飢えている家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここに連れて来なさい。」と、ヨセフはすべてを知ったうえで兄たちに命じたのです。 末の弟とは、ヨセフと同じ母をもつ唯一の弟、愛すべきベニアミンです。 ヨセフはなぜ、兄弟の一人シメオンを縛り上げ、父のもとにひとり残していた末の弟ベニアミンを連れてくるようにと難題を強要したのでしょうか。 父ヤコブがもっとも悲しむことを、兄たちに強要したのでしょうか。 ヨセフには悲しい過去の体験があります。 兄たちに見捨てられ、互いに家族がひとつにまとまることのできない苦しみ、父を同じように愛することのできない家族間の愛の貧しさを知っています。 ひとり残されるシメオンを本当に兄たちは愛しているのか。 連れて来られたベニアミンを父のもとに連れ帰る覚悟は本当にあるのか。 そのベニアミン、そして兄たち皆が戻ってくるのを心待ちにしている父ヤコブを本当に愛しているのか。 そして、この自分を売った罪深さを兄たちは認め、今では悔い改めているのか。 そのことに、兄たちの姿をじっとヨセフは見つめていたのでしょう。 そのような難題を突き付けられた兄たちを代表して、ユダがヨセフに語った弁明です。 「父ヤコブに、ヨセフが語った厳しい言葉を伝えました。 しかし、ベニアミンを連れてくることこそ、もっとも愛していた息子ヨセフを亡くして悲しむ父ヤコブの最大の痛みです。 もし連れ帰ることができなければ、この自分を代わりに監禁してください。」とヨセフに嘆願したのです。 今までとは違う兄たちの砕かれた姿を、そのユダの弁明する姿にヨセフは見たのでしょう。 父ヤコブを心から愛する兄たちを、その姿によって見極めたのでしょう。 互いに愛し合う兄たちの姿を見て取ったヨセフは、ついに平静を保つことができなくなり、自分の身を明かしたのです。 ヨセフは喜びにあふれ、涙が噴き出たと言います。 ベニアミンと兄たちを抱いて泣いたと記されています。 神はご自身の民、12部族をつくるために、ヨセフを異国の地に前もって遣わし、兄たちをイスラエルから異国の地に遣わし、それぞれに心を砕いて互いに引き合わせてくだる。 どのような境遇にあったとしても、それぞれから離れることなく神は共にいてくださり、それぞれを救うために養ってくださっていたのです。
「神の備えに生きる」 創世記22章1~14節
神の約束の言葉だけを信じて従ってきたアブラハムは、神から愛され、常に神とともにある存在でした。 不可能と思われる子どもさえも晩年には与えられ、その祝福のしるしとも言える恵みに神を賛美することを忘れず、礼拝を怠らなかったアブラハムでした。 神に「アブラハムよ」と呼びかけられ、「はい、ここにいます」と応えることのできる、神との親しい交わりの中にあったアブラハムでした。 そのような祝福に満たされ、信仰に大きな欠けがあるとは思えないアブラハムを神が試したと言われるのです。 試したというよりは、命じられたとあります。 その命令の中味が、「あなたがもっとも大切にしている、あなたが愛してやまない息子、独り子イサクを一緒に連れて行きなさい。 わたしが命じるところ、モリヤの地、わたしが命じる山の一つに登りなさい。 そして、そのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」というものであったのです。 神は何ゆえに、生々しい残酷さを秘めているこの試みをアブラハムにかけなければならなかったのかと問いただしくなります。
ところがアブラハムは、この神のご命令にためらったり、思い悩んだり、動揺することなく、直ちに翌朝早く、黙々と自ら「ろばに鞍を置いた。 献げ物に用いる薪を割った。 神の命じられるところに向かった。」のです。 そして、三日目にその命じられたところに到着したと言います。 この惨い内容を秘めている神のご命令を内に抱いて、父と息子がともに向かう三日間の姿を思い浮かべてみてください。 親子ふたりの心の中にある思いを想像してみてください。 何とも言えない重苦しさを感じます。 神が命じた場所に到着した父アブラハムはついてきた若者たちに、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と、これから起こるであろう残酷さを秘める出来事を、まるで息子と一緒に礼拝をする出来事であるかのように思っています。 息子イサクは、「わたしのお父さん」と父アブラハムに呼びかける。 父アブラハムは、すぐさま、「わたしの子よ」と応える。 父と息子の間に緊張感が漂っています。 「お父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」と問う。 薄々、息子はこれから起こるであろう出来事を感じ取っていたのかもしれない。 どう答えてよいのか分からない父には沈黙があったのかもしれない。 「わたしの子よ、きっと神が備えてくださる。」に違いないと答えるしかない。 この答えに息子は納得したのでしょうか。 父は、息子の疑問に十分答えたと思ったでしょうか。 この短い対話の後、神が命じられた場所に、神が命じたことを成し遂げるために、それ以上何も語らず、二人は一緒に歩いて行って、祭壇を築き、息子をささげるという神への礼拝をささげようとしたのです。
神が命じられた場所は、父アブラハムと息子イサクの二人だけでしか行くことのできなかった場所です。 互いに「わたしのお父さん、わたしの子よ」と言うだけで、何も語らず神にささげる二人だけの礼拝のために赴く親子の姿です。 父アブラハムは、この三日間の沈黙の重苦しい歩みの中で知らされたのでしょう。 神によって与えられたものを神にお返しする。 これから神ご自身から与えられるものを、愛する息子と一緒に受け入れようとする。 神が求めて奪い取っていかれるものを、息子と一緒にお返ししようとする。 25年間、待ち続けて不可能と思われた息子の命をさえ叶えて与えてくださった神を信じることができた。 その神にはご計画があることを信じることができた。 神はすべてをご存じで、神ご自身が説明してくださると委ねることができた。 息子をささげただけでなく、アブラハム自身もまた、神にささげることができたのです。 そこで神が、備えに気づかせてくださったのではないしょうか。
「見えるみ業と見えないみ業」 使徒言行録5章17~26節
使徒たちが捕らえられ、投獄されたのはここで二度目です。 最初の時は、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を癒すという出来事を起こした時です。 イエスが死者の中から復活したという事実を、民衆の前で堂々と宣べ伝えていた時です。 その二人の姿を見ていていた祭司長たちが「いらだって」投獄したのです。 そして、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と脅して二人を釈放したのです。 二度目となる今度は、「ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」と書いてあります。 こうして囚われた使徒たちに、目に見えて不思議なことが起こったのです。 何の抵抗もできない使徒たちでした。 牢にはしっかりと鍵がかけられていました。 念には念を入れて、その牢の扉の前には番兵までもが立っていたと言います。 そうであるにもかかわらず、使徒たちは牢の外に連れ出されました。 解放されただけでなく、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という神の言葉に呼びかけられました。 「神殿の境内」とは、使徒たちが捕らえられた現場です。 またしても同じように、もう一度そこに立ってみ言葉を告げなさいという神の命令であったのです。 使徒たちは凝りもせず、再び出かけて行って神の呼びかけ通りに「命のみ言葉」を民衆に向けて語りかけたのです。 この尋常ではない不思議な出来事に驚き、思い惑いながらも祭司長たちは、三度目の逮捕と投獄をここで行ったのです。 なすがままに身を委ねるしかできない小さな存在の使徒たちを、それがたとえ公の牢の中であったとしてもお構いなく、神は用いようとされるのです。 神の選びの器がたとえふさわしいと思えなくても、神はその選びにふさわしく働く場に立つまでどこまでも追い求めて、連れ出して、その務めの場に立たせてくださるのです。 私たちの状態がどうであれ関わりなく、神のご計画に沿って小さな存在である私たちでさえも用いてくださると言うのです。 いかなる妨げがそこにあろうとも、閉じ込める鍵をへし折って、その扉を開いて、妨げる番兵を差し置いて、そこから連れ出して神の働きの場に向かわせるのです。 この見えるみ業こそ、神の恵みのしるしです。
しかし、神の恵みのみ業はここで終わらないのです。 そのしるしを通して、私たちは神の呼びかけ、神のみ言葉を聴くことができるきっかけを頂くのです。 使徒たちを裁く側の中から人を起こして、神はご自身のみ心を成し遂げられるのです。 民衆全体から尊敬されている人物、使徒たちを外に出すようにと命じることのできる律法の権威者であるガマリエルでした。 「使徒たちの行動が人間から出たものなら、自滅するだろう。 しかし、神から出たものであれば、使徒たちを滅ぼすことはできない。」というガマリエルの意見によって、釈放されたのです。 使徒たちは自分たちが釈放されたことをそこで喜んだのではなく、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ。 そして、言われた通り、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、福音を告げ知らせた。」と言います。 神は事を起こす前に、もうすでに使徒たちを迫害する最高法院の中から律法学者の権威を用いて準備をなさったのです。 神はご自身の働きのために、私たちの思いに先立って事を起こしておられるのです。 私たちは神の助けを願うことに夢中になって、神の呼びかけるみ言葉に耳を傾けることに貧しい者です。 見えるみ業に満たされた際に、神はご自身の働きのための務めを私たちに語りかけてくださるのです。 私たちはその恵みの結果だけに目を奪われて、神の務めの呼びかけを聞き逃してしまうのです。 私たちが気づいていようがいまいが、この命の言葉を語るべくして、その命の言葉に生かされるべくして、神は準備して呼びかけてくださるのです。
「神の教会」 使徒言行録20章25~38節
パウロがわざわざエフェソから教会の人々を呼び集めてもっとも伝えたかったことは、22節の「今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます。」ということでした。 そして、25節の「今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」という別れの言葉でした。 一連のことを語り終えたパウロに、エフェソから駆けつけた人たちは皆、「激しく泣いた。 パウロの首を抱いて接吻した。 悲しんだ。 けれども、パウロを船まで見送りに行った。」と書かれています。 エフェソの人々とパウロの50~60キロの距離を越えた感動的な再会と別れがここに記されています。
パウロの姿に、イエス・キリストの姿を見ることができます。 イエスも「霊に促されて、導かれて、悪の霊から誘惑を受けるために荒れ野に行かれました。」 人間が通る様々な誘いを受けたイエスは、ことごとく神のみ言葉によって拒み、乗り越えて神の前だけに生きることを選び通されました。 そして、十字架において息を引き取るその寸前まで、まとわりついた悪の霊の誘いを振り切るかのように、イエスは最後の晩餐で弟子たちに別れを告げて、十字架の死に向かわれたのです。 パウロにとってエルサレムとは、どういうところでしょうか。 ユダヤ教の中心地です。 かつてパウロが熱心に律法を学んだ場所です。 そのパウロがイエス・キリストの呼びかけによって、自分が迫害していたキリスト者に自分自身が変えられたのです。 エルサレムのユダヤ教徒から見れば、パウロは裏切者です。 エルサレムを中心とするキリスト教会の人々からも同じです。 パウロが異教の地で教えている、律法に囚われない教えを快く思っていない人々がパウロの命を狙っていてもおかしくはないところです。 そのような激しい敵意に取り囲まれているエルサレムに、パウロは「霊に促されて行きます。 投獄と苦難とがわたしを待ち受けていることだけは、霊によって告げ知らされている。 だから、わたしの顔を見ることがなくなる。」と語っているのです。
パウロは、「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こしてください。 公衆の面前でも、方々の家でも、ユダヤ人にもギリシャ人にも、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えました。 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を証ししてきました。 神のご計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えました。 このイエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという務めを果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」とまで言うのです。 パウロは命がけで、このアジア州で三年間主に仕えてきたのです。 そのようにして建て上げられたエフェソの教会の姿を、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」と言い、「エフェソの群れはだれのものでもない、神に属する、神の所有にある教会である。 群れのひとりひとりもまた、聖なる者とされている。」と言います。 何ら欠点のない、完全無比の教会と言っているのではありません。 神がご計画に沿って、導いてくださった教会である。 神ご自身が、その御子イエス・キリストの十字架の死によって赦して、ご自分のものとしてくださった取り分けられた神の民であると言っているのです。 神によって選び出されて、ご自身の民として集めてくださっているから、「聖なる者」になる。 その御子イエス・キリストの十字架によって贖われているから、集まるそこが「聖なる場所」となる。 そのために、神の教会の群れを、「注意して見張る、霊によって立てられた者」となると、パウロはエフェソの人々に告げたのです。 私たちにとって、エルサレム、エフェソとはどこのことでしょうか。
「敵意という隔ての壁」 エフェソの信徒への手紙2章14~22節
ローマで皇帝の裁判を待つために牢獄の中に収監されているパウロが、エフェソにいる信徒へ手紙を書き送っています。 この境遇を踏まえて、主イエス・キリストの福音のための「囚人」であると称しているパウロは、「だから、心に留めなさい。 忘れてはならないことを、いつも憶えていなさい。」と言います。 「あなたがたは、以前には異邦人であった。 律法も、割礼も、神も知らない民であった。 神の選ばれたイスラエルの民に属さず、神が約束してくださっていることも、神が招いて捜し求めてくださっていることも知らずに、この世で漂流していた寄留の民であった。 そうであるにもかかわらず、今や、イエス・キリストの十字架の死によってあなたがたの過去は赦された。 もうすでに神に近い者となった。 だから、心に留めておきなさい。」と言うのです。 留めおいておくその内容が14節です。 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とパウロは言います。 政治や社会で言う「争いをしないとか、戦争をしないとか」というような「平和」のことではありません。 神との関係のことです。 神とつながっているのかどうかです。 神との関係が途絶えているのは、私たち人間の側に原因があるのでしょう。 神によって創られた私たち人間が勝手に神のもとを離れ、隠れて過ごすようになった。 神の側からの赦しがなければ、修復不可能な状態です。 そうであるにもかかわらず、神はご自身の方から一方的な赦しの提案、約束をしてくださったのです。 もし神との関係が断絶しているなら、神との関係を修復してもらいなさい。 この一方的な「和解」の神の申し出を、イエス・キリストの十字架において信じて受け取りなさいと言うのです。 ですから、イエス・キリストこそ、神との関係を修復させる神の「平和」そのものであると、エフェソの人々にパウロは語っているのです。
ここで注意しておきたいことは、キリストは「わたしの平和」ではなく、「わたしたちの平和」ですとパウロが言っていることです。 パウロの言う「平和」は、17節で「キリストはもうすでにおいでになった。 神と遠く離れている人たちにも、また近くいると思っている人たちにも、キリストはこの世においでになって、「わたしたちの平和」という福音をすでに告げ知らせてくださった。 キリストは、あなたがたと神との間の平和だけでなく、あなたがたの間にある「敵意という隔ての壁」を取り壊して、二つのものを一つにされただけでなく、ひとりの新しい人に造り上げてくださった。 ひとつの体として綴り合わすように、神と和解をさせて、ひとりひとりの間にある『敵意という隔ての壁』を十字架によって滅ぼされた。」と言うのです。 「敵意」とは、敵をつくるという心でしょう。 本来、ひとつであるはずのものがふたつに分断されているのは、この「敵意」からくるものでしょう。 これは「敵」の中にあるものではなく、こちら側の私たち自身の中に隠れているものです。 自分しか認めようとしない、敵の中にあるものだけを見て、裁こうとする頑なな心です。 自分の中にある「妨げ」を見ようとしないで、「敵」の中にあるものだけを見ようとする心です。 これこそ、キリストの十字架による赦しがなければ、取り払うことのできないものです。 しかし、その「敵意」はもうすでにキリストの十字架によって取り壊されている。 なぜなら、もうすでに私たちはこのキリストによって一つの霊に結ばれている。 神を父と呼んで神のもとに近づくことが互いに赦されている。 もはや、外国人でも寄留者でもなく、神の民に属する者、神の家族である。 この神の和解と赦しを得た「わたしたちの平和」のうちにある者である。 組み合わされたひとりひとりのあなたがたこそ、霊の働きによって神が宿る「神の住まい」となっているとパウロは言うのです。
「ペトロの確信」 使徒言行録4章1~14節
ペトロは、「サドカイ派の人々、祭司の人たち」が秩序を堅く守っているその神殿の境内で、断りもなく、「あなたがたが見て知っている、この男の生まれながら不自由な足が癒されたことも、また、あなたがたが十字架に架けて殺したナザレの人イエスを死者の中から復活させたことも、あなたがたの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のなされたことである。 これらみな、悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためである。」と語ったというのです。 人間の理性によってしか測ることのできない彼らにとって「死者の復活」、ましてやナザレの人イエスの復活」までも、神殿の境内で堂々と語っている姿は、耐えられないものでした。 それだけでなく、「そのイエスを十字架に架けて殺したのはあなたがたの責任である。 その責任を神が逆転させ、自らその責めを引き取って、あなたがたが殺したイエスを神が復活させた。」と言い切ったのでした。 そう語るペトロたちに、五千人もの人が従っている。 彼らが最も恐れている神殿の秩序の破壊、この恐れに押し出されてサドカイ派の人々がペトロとヨハネを捕らえて牢に入れたのです。
更にその翌日には、「議員、長老、律法学者たち」が集まって、このふたりに尋問したと言います。 当時の社会では、最高の権威をもつ議会のメンバーの尋問です。 「お前たちは何の権威によって、まただれの名によって、生まれながら足の不自由な男を癒したのか。」という尋問です。 自分たちが築き、維持してきた権威と秩序を守るために、危険と思われる存在をつぶしにかかる。 この世の働きに対するペトロの返答です。 「この生まれつき足の不自由な男がこんなに良くなって、皆さんの前に喜んで立っているのは、あなたがたが十字架に架けて殺したナザレの人イエス・キリストの名によるものです。 神が死者の中から復活させられたあのイエス・キリストによるものである。」と、一向に動じないで答えたのです。 ついには、「ほかの誰によっても、救いは得られません。 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに、人間には与えられていないのです。」と語ったと言います。 ペトロはただ、自分が体験してきた「救いの事実」だけを語っているのです。 足の不自由な男もそうです。 イエスの名によって立ち上がることができるようになった体験の証しを語っているだけです。 ペトロもこの男も、自分の身に起こった救いの体験の信仰告白なのです。 そのことを堂々とした大胆な話しぶりで語ることができるようになっていたのです。 この男があるいはペトロが何かを学んで、理解をして、何か力をもったから語っているのではないでしょう。 自分の弱さを見つめ直されてやっと、自分が辿らなければならない十字架への死、永遠の死を代わりに引き受けてくださって、復活の道、救いの道を備えてくださったイエスに出会うことができたからです。 この十字架に自ら架け上がってくださったイエスに結ばれたからです。 このイエスに身を委ねるしか道が残されていなかったからです。 これこそ、聖霊の働きです。 この神からの賜物を全身に注がれて初めてできることです。 ペトロたちは、もうすでに「このお方以外に救いはない。 神の前だけに生きている。」という確信に生きていたのでしょう。 なぜなら、聖霊に満たされているからです。 復活されたイエス・キリストとともにあるからです。どんなにこの世の権威をもっている人の前でも臆することはなかったのです。 イエス・キリストが天に上げられるその直前に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた通りの姿に、ペトロたちは変えられていたのです。
「岩の土台」 マタイによる福音書7章24~29節
このイエスの譬えは、マタイによる福音書の5章から7章にかけて延々とイエスが語られた有名な「山上の教え」の最後の締めくくりとして語られている譬えです。 「岩の上に自分の家を建てた人」と「砂の上に自分の家を建てた人」が、「賢い人」と「愚かな人」と表現されています。 「砂の上に建てた家は、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」と言います。 人生の危機に遭遇するなら、しっかりとした土台の上に自分の家を築いていなければ倒れてしまう。 だから、それに備えてしっかりとした土台を築きなさい。 これがイエスの語られたことであるかのように、私たちはとらえてしまうのです。 イエスがこの「山上の教え」を語っている相手は弟子たちです。 その締めくくりに語られた譬えです。 私たちが考えるような人生の危機に備えるためではなく、イエスがこの世で戦っておられる信仰の戦いに備えるようにと語っておられるのです。 向きを変えて、生涯をささげて、イエスが語る神を信じて従っていこうとしている弟子たちです。 今までのどうしようもない歩みが赦されて、その過ちが赦されるという約束を信じて、この神の約束の保証にかけて神の前に生きて行こうとしている弟子たちに語られたものです。
イエスは、律法の戒めを熱心に教えている「律法学者たちやファリサイ派の人々」のことをこう言っています。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。 言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」 「律法学者たちやファリサイ派の人々」が語る律法は神からいただいたものである。 聞いて、行ってみて、それでも守ることのできない自分の姿を見つめなさい。 神のもとを離れてしまっている本当の姿を知らされなさい。 そのあなたがたの過ちを赦すために、父なる神が語られたみ心である律法をあなたがたが成し遂げることができるようになるために、この私は遣わされてきたのである。 この神の赦しがない限り、あなたがたは神のみ心を果ことができない。 人はその罪が赦されて初めて、神のみ心を知り、気づくようになる。 神が求め、願っているような姿にあなたがたは変えられる。 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」となる、「岩の上に自分の家を建てた者」となると、弟子たちに言われているのです。 弟子たちがそうであったように、私たちの信仰の始まりは、イエスというお方との思いがけない突然の出会いであったでしょう。 意味が分からないイエスの呼びかけのみ言葉に出会ったのでしょう。 人は、神の側からの呼びかけに応える存在です。 そのように造られているのです。 イニシアティブは神の側にあるのです。 人はただそれに応える存在にすぎません。 パウロは、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない。 イエス・キリストこそ、霊的な岩である。」と言います。 岩の上であろうが、砂の上であろうが、何かしらの自分の家を私たちは建てているのです。 問題はその土台です。 神のみ心を果たすためには、神のもとから遣わされてきたこの「わたし」以外の土台のうえには、「わたしの言葉を聞いて行う者」の自分の家は建たない。 この「わたし」のこれから果たされる十字架の赦しを受け取りなさいとイエスは言われる。 この体験の味わいをイエスは、「岩の上に自分の家を建てる」と表現しているのでしょう。
「右手を取って立ち上がらせる」 使徒言行録3章1~10節
「生まれたばかりの教会の群れ」の姿を、使徒言行録はこう語っています。 使徒たちを通して語られたイエスの教えに熱心であった。 イエスの語られたみ言葉を生きた言葉として、その上に土台を置いて生きていたと言います。 そして、相互の交わりに熱心であった。 ひとりが背負う十字架がもうひとりの痛みや破れを覆い包み、互いに神のご愛や恵みを喜んで分かち合っていたのでしょう。 パンを裂くことにも熱心であったと言います。 イエスが自分たちのために十字架のうえで裂いてくださったからだを覚え、繰り返し賛美し、礼拝することを忘れなかったのでしょう。 そして、祈ることに熱心であったと言います。 ひとつの塊となって祈る姿です。 隣人の口から出る言葉によって励まされ、慰められる体験でしょう。 腹の底から「アーメン、その通りです」と唱和することのできる幸いでしょう。 そのような「生まれたばかりの教会の群れ」の姿に、イエスの起こされた様々なみ業が起こった。 彼らの姿を見つめた人々に、彼らとともに神がおられるという畏怖心が起こされたと言うのです。 「多くの不思議な業としるしが行われた。 人々が、彼らの姿に好意を寄せ始めた。 同じように救われる人々が日々加えられていった。 ひとつにされていった。」と言います。
この群れの代表とでも言うべきペトロとヨハネが、祈るために神殿に向かう途上のことでした。 ペトロとヨハネがひとりの男の姿に目を留めました。 「生まれながら足の不自由な男」でした。 神殿の境内に入る門に、人々の施しを求めるために連れて来られ、そこに放置された男です。 その惨めな男の姿に、ペトロとヨハネが目を留め、足を止め、じっと見つめ「わたしたちを見なさい」と語りかけたと言うのです。 そしてペトロは、「わたしは金や銀はもっていない。 あなたが願い求めるものは何ひとつ持ってはいない。 しかし、わたしが持っているものをあげよう。」と語りかけたのです。 ペトロとヨハネたちが神からいただいたものは、ただひとつです。 イエスが天に上げられる前に語った、父なる神が約束してくださった聖霊だけです。 十字架にかけられて死んだそのイエスを、神が自らのもとへ引き寄せ、新しい霊の命に生まれ変わらせ、再び、私たちのところに霊の姿をとって遣わしてくださった復活の主イエス以外に、彼らは何も持っていないのです。 ナザレの人イエス・キリストの名によって語る言葉以外に、自分たちは何ももっていない。 しかし、このみ言葉に立つならば、死んでいるものでさえも、神の世界に生きる霊の命に生き返らされる。 この力と重みを体験していたからこそ、足の不自由なひとりの男に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と語りかけたのではないでしょうか。 その次です。 ペトロは語りかけただけでなく、その惨めな男の右手を取って、立ち上がらせたと言うのです。
これは、ひとりの男のからだの癒しを語っただけの出来事でしょうか。 ペトロたちは聖霊に満たされて、新しいものに造り変えられています。 そのうちには、ナザレの人イエス・キリストを宿しています。 お互いがイエスのみ言葉を思い起こして、交わりによって、礼拝によって、祈りによってひとつの塊とされています。 その彼らが目を留め、足を運び、語りかけ、自分たちのなかにあるイエス・キリストを証ししているのです。 この連帯の中に、ペトロたちはその惨めなひとりの男と共に生きているのです。 ですから、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と呼びかけ、その名を挙げて祈ったのです。 これが「生まれたばかりの教会の群れ」の働きであると、からだの癒しにとどまらない劇的な変化をもたらす象徴的な出来事として、凝縮して書き記したのではないでしょうか。
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