「ひとりひとりに与えられる霊の賜物」 コリントの信徒への手紙一12章1~11節
コリントの教会の中では、一人一人に与えられている賜物について、どのような賜物が優れているのか、
賜物の内容について争うような事態が起こっていたようです。 パウロはこのような事態に直面して、コリントの教会を愛しているからこそ、霊の賜物の意味について明らかにする必要に迫られます。 パウロは教会の人々に、まだ異教徒であった頃、言葉を語らない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているだろう。
偶像は決して言葉を語ったりしなかったではないか。 あなたがたに語りかける力などなかったではないか。 イエス・キリストの神は、言葉によって世界を創造し、言葉によって世界を裁き救われるお方である。
この神から出てくる神の霊は、この神の言葉に結びついている。 霊の賜物を受けるとは、この神の霊によって神の言葉を語ることができるようになることであると、パウロは言います。 「イエスはわたしたちの救い主である」と語ることができるようになる。 神のみ子であるイエスを信じるようになることであると言います。 しかし、パウロは、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるため」と言います。 わたしたちがともに進むために、わたしたち一人一人に霊の賜物が与えられていると言うのです。 一人だけのものではない。 勘違いをしてはならないのです。 全体とは、神の意志によってこの地上でイエスのもとに集められた群れのことです。 この聖書のところでは、コリントの教会のことです。 教会という群れを建て上げるため、キリストにつながる一人一人が互いに補い合うためのものなのです。 その霊の賜物を、同じ唯一の霊が、望むままに、それを一人一人に分け与えてくださっているのです。 わたしたちは、この霊の賜物を神の恵みとして受け取ります。 そこには、感謝と喜びがあります。 これこそが、教会の群れの生命線です。 この生命線を経たキリスト者の間には、たとえお互いに衝突が起こったとしても、人間の弱さを越えて、衝突を越えてイエスが立っておられることを知ることができます。 わたしたちには、残念ながら、他者の苦しみや喜びを心から共有することのできない限界と現実があります。 しかし、人の喜びを喜び、人の苦しみ
を苦しむことのできるただひとりのお方にわたしたちは結ばれているのです。
「イエスの心を表す愛」 ルカによる福音書7章36~50節
「シモン」と「罪深い女」というふたりの人物が登場します。 シモンは、律法を守るということに熱心な人でした。 そのシモンはイエスの聖書の教えに敬意を払い、食事の席を用意し、食卓を整え、イエスを招きます。 そこに、「罪深い女」とされるひとりの女性が現れます。 娼婦であったと言われているこの女性はイエスにささげるために、食事の席に入ってきたのです。 「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」のです。 ほこりにまみれた足をきれいにすることは、奴隷の仕事でした。 女性が男性の前で、かぶりものを脱いでまとめている髪をほどくことは、恥ずべきことでした。 香油は、ナルドの香油という高価なものでした。 イエスは、この女性が遠慮しながら精いっぱいささげた心を、受け入れたのです。 シモンは、イエスが触れている女は「罪深い女なのに」と心の中でつぶやきました。 このシモンの愛の貧しさを知って、イエスはひとつの譬えを用いて、借りのある人が赦してもらった赦しの大きさを問題にします。 そして、多く赦してもらった人は、どのような人になるかを、たった今、食事の席で見ることができたひとりの女性の姿で浮き彫りにします。 イエスは、この女性が「多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言います。 シモンは、自分は神殿の祭儀を忠実に守り、定められた行いを忠実に果てしていると自負します。 シモンには、感謝がないのです。 しかし、この女性はシモンと違って、自分が赦されなければならない存在であることを知りました。 イエスによって、傷だらけのままの自分が受け入れられていると感じました。 この女性は、自分の罪が赦されたいから、イエスに振る舞ったのではありません。 言葉にすることができないぐらい、何かに押し出されたのです。 自分が持ち合わせている香油を惜しみなくささげ、自分の涙で、自分の髪の毛で、自分の口で、イエスの後ろから、泣きながらささげものを表現したのです。 イエスは、この精いっぱいの感謝を表したこの女性に、「あなたの罪は赦された。 あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。」と言われたのです。 イエスの心は、惜しみなく赦し愛する心です。 このイエスの心に満たされて初めて、愛し感謝していくことができるのです。 イエスは、この女性に、今、あなたが触れた恵みの中で安心して生きて行きなさいと送り出したのです。
[fblikesend]「真の指導者」 ヘブライ人への手紙13章7~16節
「真の指導者」 ヘブライ人への手紙13章7~16節
この手紙の受取人は、「あざけられて、苦しめられて、見せ物にされ」ても、「苦しい大きな戦い」に「喜んで耐え忍んだ」人たちでした。 しかし、残念ながら今では、この手紙の表現を借りますと、「耳が鈍くなっている。 再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわなければならなくなっている」人たちでした。 しかし、この手紙の送り主は、「最初の確信を捨ててはいけません。 この確信には大きな報いがある。 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となる。」と、再び立ち上がるよう励まします。 「神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい」と言います。 この手紙の想定する「神の言葉を語った指導者たち」とは、迫害によって殉教した、そうでなくてもすでに亡くなられた福音の宣教者、教会の指導者たちのことを言っているのでしょう。 それが「彼らの生涯の最後の終りをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」という言葉なのです。 聖書は、殉教した信仰者を英雄視したり、その死を美化したりすることは決してありません。 聖書に記されている数少ない信仰者の最後の姿を、使徒言行録に表されたステファノの姿に見ます。
イスラエルの人々による理不尽なリンチとでもいうべき仕打ちに際して、自分自身の死を前にして遺したステファノの最後の姿は、祈りの姿でした。 「主よ、わたしの霊をお受けください」と、主に呼びかけて、主を見上げました。 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、同じ罪人として主の前にひざまづいて、とりなしの祈りをささげました。 ステファノは、自分自身と目の前にいる全ての人々を、この二つの祈りによって神に託しました。 この手紙の送り主は、この信仰者の最後の姿にある、祈り続ける信仰を見倣いなさいと言います。 しかし、わたしたち人間の地上での生涯には、最後があります。 しかし、イエス・キリストの生涯には終りがありません。 「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」お方です。 神の言葉を語り、最後まで歩んだ信仰者の姿を通して、この変わらない真の霊的な指導者であるイエス・キリストの姿に見倣いなさいと語りかけているのです。 わたしたちは、この変わらないイエス・キリストだけを唯一の祭壇としたのです。 イエス・キリストが赴き、立ち続け、辱めを受けられたところに、わたしたちも
また立つのです。
「変わらぬ愛の父」 ルカによる福音書15章11~32節
放蕩息子の譬えは、イエスの譬えの中でももっとも有名であるかもしれません。 イエスは、自分勝手に
身を持ち崩してしまったこの「弟」の姿だけでなく、「兄」の姿を通してもわたしたちの本当の姿を語ります。 やっと我に返って、心も体も打ちのめされて戻ってくる弟息子を迎える父は、憐れんで走り寄って行きます。 父は、この息子をずっと待ち続けていたのです。 人の欲望のままに、人の傲慢によって、父のもとを離れて行った罪のゆえに苦しんだ自らの息子の心の嘆きを察して、憐れんだのです。 ひとりで苦しみ悲しんだであろう息子の嘆きを、息子の犯した罪に刺し通された父の痛みによって、抱きかかえて接吻したのです。 息子が何もしない、何も語らない前に、父は憐れんで抱きしめたのです。 父のこの変わらない愛が、この弟息子の悔い改めを、心の奥底から引き出し告白させます。 弟息子は、ひとつひとつの悪い行いを嘆き悔やんでいるのではありません。 自分自身が、父の愛のもとにあったことを忘れてしまった、父を見失ってしまっていたことに気づかされたのです。 父なる神に対するわたしたちの悔い改めは、過去に犯した出来事に対する後悔や懺悔ではありません。 自分自身の本当の貧しさに気づかされ、父なる神の一方的な無条件の愛に気づかされ、まったく新しくつくり変えられるという実体験です。 「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と語り始める弟息子の言葉を遮り、父は「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と僕に言って、だれが見ても自分の息子であることが分かるように息子の身を飾らせるのです。 兄は、おもしろくありません。 父の言いつけを守らず、自分勝手に父の身上をつぶした弟を、父の息子として受け継ぐ資格がないと主張します。 兄にとっては、父の言いつけを守ることが重荷となり、そこには喜びも感謝もないのです。 弟は、父の赦しのみ腕の中に、身を投げ出して悔い改めました。 兄は、もっとも父に近いところにいながら、父にもっとも遠い存在となっているのです。 しかし、父は、自分勝手な放蕩息子を迎えに駆け寄ったばかりでなく、弟と比較して弟よりも愛されていないと嫉妬に縛られている孝行息子にも、父の愛を通して弟を見ることを知らせ、父の家に招くのです。 神は失われた一人を見出すことを喜ばれます。 そして神の家の中では、そのことをともに喜ぼうと人々を招いておられます。聖書に、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」とあります。 神ご自身が、わたしたちのぼろぼろの姿に、嘆きや悲しみや苦しみのただ中で、いちばん良い服を着せ、手に指輪をはめさせ、足に履物をはかせ、神の子である、神の家族であることが一目でわかるように、装ってくださるのです。
「ふたりの選ばれた者」 使徒言行録 8章26~40節
サマリアにおいて福音の宣教に大きく貢献したフィリポに、神様は次の使命を与えられます。 「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と、神の使いを用いて命じます。 大群衆が待ちうける所ではなく、荒れ果てただれも通りそうにない寂しいところに行けと神は言われます。 すると、エチオピアの女王に仕える宦官にフィリポは出会います。 エチオピアは、当時、南の果てと言われていました。 宦官とは、女王に仕える位の高い職です。 このエチオピアの宦官を見かけたフィリポに向かって、神の霊がその宦官を「追いかけて、一緒に行け」と言うのです。 どうみても、ほとんど共通点のない、寂しいところでのたったふたりのだけの不思議な出会いです。 フィリポは、神の霊に導かれ、サマリアでの働きの後すぐに示される所に出かけていきました。 宦官が乗っている馬車を追いかけさせたのも、神の霊でした。 フィリポは、絶えずこの神の霊に従っていきます。 宦官もまた、南の果てからはるばるエルサレムに独りで礼拝するために、足を運んで来ました。 宦官という職は、女王に仕えるために、男性としての機能を失われていましたので、ユダヤ社会からは断じて認められないものでした。 しかし、この宦官は、預言者イザヤの書が語る「わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、その名は決して消し去られることがない」という神のみ言葉に、一筋の希望を持っていたのです。 フィリポを通して、神は宦官に働きかける。 宦官に向けて、神はフィリポを遣わす。 フィリポも宦官も分からないまま、神によって選ばれた二人として、神が選ばれた場所で出会うのです。 ここには意識しようとしまいが、神の霊に導かれるところに出向いて行った二人の従順がありました。 宦官は、かねてよりイザヤが預言している「羊のようにほふり場に引かれて行った、毛を刈る者の前で黙している小羊のように口を開かない」お方はいったいだれのことなのかと疑問を持っていました。 フィリポは大胆に「おわかりになりますか」と、宦官の馬車の中に入り込んでくるのです。 宦官は、フィリポの大胆さと熱心さにうなずいて「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と言って、謙虚に「馬車に乗ってそばに座るように」と頼みます。 フィリポは、神によって遣わされた者、神の霊に従う神の器でありました。 奇跡というしるしを用いず、神のみ言葉だけによりイエスに導いた人でした。 宦官は、礼拝をすることを求め、み言葉に希望を持ち、み言葉に渇いていた人でした。 霊に身を委ねる人、霊に導かれて賜物として受け入れることのできる人こそ、神に選ばれた者です。 そのふたりの交わりに、神の霊が働かれたのです。
[fblikesend]「イエスの後に従う者」マルコによる福音書 8章31~9章1節
群衆が思い描いていたメシア、ペトロが思い期待していたメシアとしてのイエスの姿は、これから辿って行こうとしておられるイエスの姿とは、余りにも違いがありました。 イエスは、弟子たちに、エルサレムを目指して十字架に向かって行こうとする時に、初めて真の姿を極めて具体的にはっきりとお話しになったのです。 イエスは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに排斥されて、殺され、三日の後に復活することになる」と予告されたのです。 ペトロは、そんなことが起こる筈がないとイエスを諌め始めたのです。 ここに、わたしたちの罪の恐ろしさを見ることができます。 自分が期待するようなイエスになってもらわないと困ると、自分を守るのです。 イエスの前に立ちはだかって、イエスを遮ろうとするのです。 イエスは、愛する弟子であるペトロに「サタン、引き下がれ。 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責します。 引き下がれとは、わたしの前に出ないで、わたしの後について来なさいということです。 イエスは、荒野におけるサタンの誘惑を皮切りに、生涯がこの「神のことを思わず、人間のことを思う」誘惑との戦いでした。 一時、離れていたサタンが、なんと愛する弟子であるペトロの口から現れ出て来たのです。 この弟子たちの姿をご覧になって、イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、そこにいるすべての人々に向けて、「わたしの後に従いたいと思う者は」と語り始めたのです。 特別に信仰の篤い人であるとか、特別に何か使命を与えられている人だけではなく、例外なく、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言います。 イエスは、無駄に殉教の死を遂げなさいと言っているわけではありません。 十字架という横木を担いで、屈辱的な姿をさらしながら神のみこころだけに従っていく。 イエスに従うということは、このへりくだった姿、イエスと同じ姿をもって、イエスの後に従って歩むということです。 自分勝手な思いを捨て、自分が独りよがりに生きることに死ぬということです。 この世に属する自分に別れを告げて、神の霊によって新しい命に生きるということです。 まったく新しく生まれ変わるということです。 わたしたちのはかない短い命も、イエスのために、福音のために用いられるならば、神の恵みによって命の根源である神から永遠の命が与えられるのです。 聖書には、人には永遠を思う心を与えられていると書いています。 はかない一瞬のために、この尊い永遠を思う心を犠牲にしてはならないのです。
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