秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

~先週の聖書研究・祈祷会の恵みから~  

2013-02-07

聖書 使徒言行録7章1~53節

*ステファノは、大祭司から弁明の機会が与えられます。 しかし、ステファノは、神の素晴らしい救いの歴史を通して、福音の真理を語る機会として語ります。 「栄光の神」が「私たちの父であるアブラハム」に現れたのは、異教の地メソポタミアであった。 一歩の幅の土地も与えられず、子どもも与えられず、ただ神の将来の約束だけに立ち上がったアブラハムの決断の信仰が、その出発点であった。 その後、神は、ヨセフとともにエジプトに、またモーセとともに荒れ野に、燃える柴の中にまで現れたのだと立証します。

*神は、土地とか場所に束縛されるようなお方ではない。 どこにでも存在し、どこにでも現れることがおできになるお方である。 あなたがたが律法を守ったから、あなたがたが神殿の儀式を守ったから、神がともにおられたのではない。 神の一方的な恵みであると語り、反論したのです。 

*神は、イスラエルの歴史に働かれたのである。 神は、アブラハムの決断の信仰を基として、復活したイエスによって新しい神の愛による戒めを与えてくださったのだと、ステファノは主張したのです。

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会の恵みから~

2013-01-31

聖書 使徒言行録6章1~15節

*できたての教会の中で問題が起こります。 2つのグループの間の食事の分配のことです。 最初の教会がしたことは、先ずすべての弟子たちを呼び集め、神のみことばを中心にして立とうとしたことです。 7人の奉仕者を選び、彼らに任せ、全員が賛成し、彼らのうえに手を置いて祈ったというのです。

*使徒たちは、改めて神の言葉を中心に据えて、「霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」に祈って託したのです。 その中心のステファノは、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行い」、「知恵と霊によって語っていた」のです。 彼は偽証人を立てられても、立って働いておられる復活の主イエスだけを見上げていたのです。 聖書は、「さながら天使の顔のように見えた」と記しています。

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会の恵みから~ 

2013-01-24

聖書 使徒言行録5章12~42節

*使徒たちは、何度捕らえられても同じところに立ち続けていました。 使徒たち一同は、心を一つにして集まっていました。 捕らえられても、主の使いが開放します。 「イエスの名によって教えてはならない」と禁じられた使徒たちを、主の使いが「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆につげなさい」と押し出すのです。

*使徒たちは、厳しい尋問に「人間に従うことよりも、神に従わなければなりません。」 「あなたがたが木につけて殺したイエスを神が復活させた」その事実の証人が私たちであり、私たちに与えられている聖霊であると語ったのです。 「イエスの名のために辱めを受けるほどの者になったことを喜んだ」のです。

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会の恵みから~  

2013-01-17

聖書 使徒言行録5章1~11節

*アナニアとサフィラの夫妻が、神に「ささげる」という行いを、聖なる形を装わせて自分たちでつくろうとします。 自分たちの土地を売って、代金をごまかしてその一部だけをささげたアナニアとサフィラでした。 聖書は、この行いに隠れたアナニアとサフィラの思いを、人間の側からではなく、神の側から鋭く見つめます。

*ペトロは、「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いたのか」「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」「主の霊を試すとは、何としたことか。」と伝えます。 驚くべきペトロの、聖霊に満たされた見抜く力です。 見抜く力のないところでは、罪は隠れます。 サタンは、この隠れたところを住みかとしているのです。 ですから、私たちは神を恐れ、聖霊に満たされる必要があるのです。

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会の恵みから~   聖書 使徒言行録4章1~22節

2013-01-10

*イエスのことを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていたペトロとヨハネは、サドカイ派の人々によって捕らえられました。 「お前たちは何の権威によってしたのか」、「誰の名によってしたのか」という詰問に、ペトロは聖霊に満たされて冷静に答えます。 「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレ人、イエス・キリストの名による」と、今まで群衆に語って来た通りの言葉をもって答えたのです。 神は、「そばに立っている」癒された男の姿をも用いて答えさせます。

*ペトロは、審問の場であろうと神殿の場であろうと、また最高法院の裁き人の前であろうと群衆の前であろうと、一貫して言葉を変えません。 聖霊は、私たちに「知る力」と「見抜く力」を与えて、語るべき言葉を与えてくださいます。 聖霊に満たされると、群衆をも、時の権力者も恐れることはありません。

[fblikesend]

「最初のクリスマス」 マタイ福音書1章18~25,2章1~11 ルカ福音書1章28~38,2章1~20

2012-12-24

マリアは、無名の女性でした。 自分の身に起きた変化は、自分が望んで起こしたものではありません。 マリアは、一切の弁解も釈明を赦されていません。 誰一人として、マリアを弁護する人もいません。 マリアは、戸惑いと悲しみの中に沈黙を守ります。 マリアは、「神のみことば通りに、自分の身に成るように」という、待ち続ける深い祈りをもちました。 ヨセフも、自分の子供の誕生に関わることも、名付ける権利も奪われました。 ヨセフは、自分自身の正しさとマリアへの愛のはざまに立って、マリアの身を守るために密かに離縁しようとします。 このまま行けばマリアには姦淫の罪によって、石打ちの刑が待ち受けているからです。 しかし、神は、その人間としての正しさや人間的な疑いや愛を越えて、「恐れず、マリアを妻として迎えなさい」とヨセフに告げます。 この最初のクリスマスにささげた、マリアとヨセフの神に仕えた痛みを覚えます。 しかし、この二人は、東方から来た学者たちや野原から駆けつけた羊飼いたちから、神の豊かな祝福を知りました。 「恐れることはない」「神がともにおられる」という約束だけに信頼し、沈黙を守った二人に喜びと感謝が与えられたのです。

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会からの恵み~ 

2012-12-06

聖書 使徒言行録3章11~26節 

*生まれながら足が不自由であった男が癒された奇跡は、自分たちの力ではない。 「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」とペトロは証言します。 

*ペトロは、イエスを「神の僕」、「聖なる正しい方」、「命の導き手である方」と表現して、死者の中からよみがえられたことこそ救い主の名の証しである。 自分たちがその生きた証人であると繰り返します。

*ペトロは、同胞のユダヤ人たちに向かって、「兄弟たち」と親しみを込めて呼びかけます。 「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と重ねて言います。 その理由は、あなたがたも「無知のためであった」からだと言います。 

*ペトロは、知らない、悟っていない、無知のゆえにしてしまったことを悔い改めるなら、罪をぬぐい去っていただくことができると語っているのです。 十字架のイエスは、私たちの知らない、悟っていない罪を私たちに責めるのではなく、黙って背負ってくださっているのだとペトロは悔い改めを迫っているのです。 慰めの時、回復の時、万物が新しくなる時、再びイエスが来られるその時までの今が、神のもとに立ち帰る救いの時だと語っているのです。 

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会からの恵み~ 

2012-11-29

聖書 使徒言行録3章1~10節 

*祈りの為に神殿に向かうペトロとヨハネは、生まれながら足の不自由な男の姿が目に入ります。その男をじっと見て「わたしたちを見なさい」といいます。 自分たちが何によって生きているのかを見なさいと言います。 今この男が必要としているものは、金や銀が「与えられること」ではない、自分で立ち上がって生きていけるように「なること」でありました。

*ペトロは「イエス・キリストの名を信じる信仰によって、この人は完全に癒された」と証言しています。 イエス・キリストの名によってとは、イエス・キリストの人格と権威と力によってということです。 イエスに代わってなされたのではなく、イエスご自身が生きて働いてくださったのです。 そして、癒されたこの男に、神に対する感謝と賛美が与えられたのです。 

[fblikesend]

秋田バプテスト教会のクリスマスのご案内

2012-11-24

秋田バプテスト教会のクリスマスを、下記のようにご案内いたします。
本当のクリスマスを教会で、ご家族で、また親子で、ご夫婦で、ご友人で一緒に過ごしませんか。
心よりお待ち申し上げます。

12月23日(日) クリスマス礼拝   (午前10時30分より11時30分) と 愛餐会
12月24日(月) クリスマス・イブ礼拝(午後7時より8時 キャンドルのもとで)

[fblikesend]

~先週の聖書研究・祈祷会からの恵み~ 

2012-11-22

聖書 使徒言行録2章14~42節 「ペトロの説教」

*ガリラヤの漁師であったペトロ、失敗ばかりのペトロが、聖書のみことばについて、また、イエス・キリストというお方についてペンテコステの出来事を通して目が開かれました。 そのペトロが、聖霊が注がれたという出来事は、預言書を通して神が預言された事である、すべての人にこの霊は注がれ、主の名を呼び求める者は皆救われると、声を張り上げて語ります。

*ペトロは、ナザレのイエスこそ神から遣わされた救い主である、そのイエスが十字架にかけられ殺され、復活させられ死から解放されたことも神のご計画であったと率直に語ります。 朽ち果てない復活の主イエスの生きた証人こそが、わたしたちであると語ったのです。

*ペトロの説教を聞いて、人々は強く心が刺された。 「どうしたらよいのですか」と尋ね始めた人々にペトロは「悔い改めなさい。 イエスの名によってバプテスマを受け、罪を赦してもらいなさい。 そうすれば賜物として聖霊を受けます。」と単刀直入に答えたのです。

[fblikesend]

« Older Entries Newer Entries »
バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元