~先週の聖書研究・祈祷会の恵みから~
2013-02-07
聖書 使徒言行録7章1~53節
*ステファノは、大祭司から弁明の機会が与えられます。 しかし、ステファノは、神の素晴らしい救いの歴史を通して、福音の真理を語る機会として語ります。 「栄光の神」が「私たちの父であるアブラハム」に現れたのは、異教の地メソポタミアであった。 一歩の幅の土地も与えられず、子どもも与えられず、ただ神の将来の約束だけに立ち上がったアブラハムの決断の信仰が、その出発点であった。 その後、神は、ヨセフとともにエジプトに、またモーセとともに荒れ野に、燃える柴の中にまで現れたのだと立証します。
*神は、土地とか場所に束縛されるようなお方ではない。 どこにでも存在し、どこにでも現れることがおできになるお方である。 あなたがたが律法を守ったから、あなたがたが神殿の儀式を守ったから、神がともにおられたのではない。 神の一方的な恵みであると語り、反論したのです。
*神は、イスラエルの歴史に働かれたのである。 神は、アブラハムの決断の信仰を基として、復活したイエスによって新しい神の愛による戒めを与えてくださったのだと、ステファノは主張したのです。
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