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「イエスの十字架の死による逆転」   マルコによる福音書 15章33~41節

2013-11-10

 イエスの十字架につけられた最後の12時間が語られています。 本来なら、一日のうちでもっとも明るいはずのお昼の12時に、暗闇が覆ったというのです。 ところが、午後3時になって、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、十字架につけられたイエスの大きな叫び声によって、事態は一変します。 
 このイエスの叫びは、自分を苦しめてきた人々に対するものではありませんでした。 今まで従い続けてきた父である神に向って叫んだものです。 人々からも、弟子たちからも捨てられたというイエスご自身の苦しみではありませんでした。 神のもとから離れてしまった私たち人間の罪を背負って、父である神から裁かれる苦しみであったのです。 これは、イエスだけが背負うことのできる苦しみです。 しかし、イエスだけの苦しみではありません。 父である神もまた裁く側にあって、自らの子どもであるイエスを裁く苦しみの中にあったのです。 私たちすべてのために、ご自身のみ子を惜しまず引き渡した苦しみの中におられたのです。父である神もまた、裁かれる側にあったイエスの苦しみを、ともに苦しまれたのです。 
 イエスがこの苦しみを背負い切った時に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 神殿の中の神がおられる所と他の場所を隔てるものが、この叫び声とともに裂けた。 神と人とを遮るものがなくなった。まったく責められることのないイエスが罪人とされて、神に裁かれた時に、すべての罪人が神の前に罪のない者とされたという逆転が起きた。 神に捨てられたイエスの絶望が、私たちの希望となった。 イエスが受けた侮辱と罵りと苦しみが、神の前に生きる私たちの力となったのです。 
 イエスの十字架の死の逆転の力は、それだけにとどまりません。 このイエスの死にざまを目の前にした百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった」と言ったのです。 百人隊長は、イエスの処刑の責任者であったのでしょう。 しかし、弟子たちからも捨てられたイエスの姿を最後まで見とどけた人物です。 「わが神」と呼ぶその神からも捨てられているのに、それでも「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と尋ね求め祈っている。 自分を見捨てた神を「わが神」と死の直前まで「なぜ」と問いながらも最後まで生き通している。 神に捨てられ絶望の中にあっても、その神を呪わず祈り続けている。 はっきりとイエスの言う「わが神」が、そこにおられるのをこの百人隊長は見たのです。 イエスの生涯も、教えも知らない、そのイエスを処刑した者が、十字架のうえにおいて、イエスが「わが神」と呼ぶ神と出会うことができたという逆転です。 それだけではありません。 遠くからイエスの十字架を最後まで見とどけた婦人たちにも及びます。 絶望しながらも、最後までイエスの苦しみの姿を見とどけた婦人が、よみがえりのイエスに最初に出会うのです。 イエスは、すべての弟子たちを失いましたが、この十字架の死を境に、今まで罪人と除外されていた異邦人の中から、また数の中にも入っていなかった女性たちの中から多くの逆転の実を結んでいったのです。 見たくもなかった苦しみの十字架を、忠実に最後まで見とどけた人たちです。 苦しむイエスの姿を、最後まで仰ぐ人たちに逆転の力、よみがえりの力が真っ先に与えられるのです。 私たちは、このイエスの苦しみを身にまとった生きた証人です。 私たちもまた、「なぜですか」と問いながら、十字架の苦しみに目を閉じることなく祈り、自分のこととして最後まで忠実に歩んで参りたいと願います。 



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