「苦難が導く慰め」 コリントの信徒への手紙二 1章3~11節
パウロは、コリントの教会の人たちに向かって、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」とまで、恥ずかしげもなく、自分たちの苦しみの姿を知らないでいてもらいたくないと手紙に書いています。 私たちは、苦しみに遭うことは心がけが悪いからである。 なるべくなら、苦しんでいることは自分一人の中に納めておきたい。 できれば晒したくないと考えてしまいます。 パウロは、具体的な自分の苦しみを積極的に語ります。 聖書には、パウロの受けた苦難はきりがないほど列挙されています。 なぜなら、パウロは、これらの苦難を通して自分が受けた神の慰めを人々に語りたいためです。 パウロが受けた苦しみはすべて、キリストの福音を宣べ伝えるという務めに結びついているからです。 パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる。」 「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」と言うのです。 苦しむ者こそ、神の慰めを経験することができる。 それだけでなく、その慰めを苦しむ人々と分かち合うことができる。 それは、キリストのゆえであると言っているのです。 「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」と言うのです。 パウロは、この苦しみと慰めこそが、キリストに触れる者すべてに共通のものであると言うのです。 パウロは、逃れることのできない、解決の糸口さえ見つからない、出口のない苦しみに遭いました。 パウロは、完全に自分自身に絶望したのです。 自分自身に寄り頼むことに絶望したのです。 パウロはこの絶望によって、自分自身から解放された。 自分自身を寄り頼むことから、神を信頼することへと転換させられた。 自分自身に完全に絶望したからこそ、神を信じ頼ることを悟ったのです。 ついに、パウロは、苦しみを受けることから立ち上がって、苦しみを背負うことへと変えられた。 その苦しみから導かれる慰めを、ともに苦しむ人々と分かち合うことへと転換させられたのです。 苦しみも慰めも、神のものです。キリストの十字架の苦しみのもとに、神がおられるのです。 そこにこそ、神の慰めと救いがあるのです。 私たちの教会もまた、この絶望の中に、弱さの中に神が働いてくださることを知ることができる。 この弱さと乏しさこそが、神が働いてくださることを鮮やかに証しすることができるのです。