「神の選び」 エレミヤ書1章4~10節
エレミヤは「祭司ヒルキヤの子」と言います。 預言者の務めの難しさを身に染みて知っていただろうし、属国として生きて行かなければならない弱小国ゆえの悲観的な現実も味わったでしょう。 そのエレミヤに、「わたしはあなたを、諸国民の預言者として立てた」という主の言葉が不意に臨んだと言います。 この主の言葉にエレミヤはしり込みをし、「わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎません。」と即座に返答するのです。 自分には、命じられた務めを果たすのに、弱さや欠けを正直に申し出たのです。 エレミヤの心からの拒絶であったのです。 このエレミヤの抵抗に主は、「あなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、あなたを聖別した。」と呼びかけるのです。 エレミヤがどのような性格であるとか、これまで何をしてきたのかとか、今どのような思いで過ごしているのかに一切関係なく、主御自身のみ心を果たす為に用いられる器として定められていたという宣告です。 不意に、直接介入された神の宣言でした。 聖書はこれを「エレミヤの召命」と言います。 エレミヤは自分自身についてのことよりも、むしろ、異教の神々に偶像礼拝をしている民、神の呼びかけに聞こうともしない民を決して神は見捨ててはおられない。 その為には、だれかが預言者となって一国の王や指導者たちに意見を述べ伝える務めを果たさなければならないのではないかと気づかされたのではないでしょうか。 それほど大切な働きを果たしうる存在など、この世にはいない。 神ご自身が準備され、それにふさわしくない存在をもつくり変えて遣わす。 これから起こる出来事は神の働きによるもので、神が選び用いられる者こそがそれにふさわしい者になると悟ったのではないかと思わされるのです。 「神による召命」とは、絶望としか思えない厳しい現実の中で、嘆きもためらいも吹き飛ばすほどの主なる神の強い宣告によって、神の器にふさわしく新たに変えられていくということでしょう。 その「務め」とは、「行って、わたしが命じることをすべて語れ。」というものでした。 そのために、「主は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」と言われたのです。 「預言者」とは、神の言葉を直接預かる者ということです。 人間の限界の中で語られる言葉に、聖霊の働きによって神との出会い、主イエスとの出会いによる味わいを知って語るなら、神の言葉の出来事になる。 拙い人間の言葉が神のご愛に触れ味わった時に、導かれ語られるなら神の言葉になると信じます。 主なる神は、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と約束されます。 「恐れるな。 わたしが共にいる」という「インマヌエル」の約束こそ、旧約聖書、新約聖書すべてを貫く神の約束です。 もうひとつの約束は、「諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。」というものでした。 その理由は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊するために」と言います。 「北からの災いが襲いかかる」という神の働きのことです。 これは人々を罰し、裁くためではありません。 「建て、植えるために」と言い、悔い改めて、目覚めて、気づいて、新しい歩みをするためです。 神はすべての人々を、本来そのために授けられたはずの命を取り戻すために、イエスを十字架に架け、エルサレムとユダ王国を破壊せざるを得なかったのです。 エレミヤは、服従するしかない所に立たされたのです。 神への抵抗を砕かれたからです。 神が強いて服従させ、エレミヤに語りかけ、整えさせ、戸惑いやためらいを克服させられたからです。 神に服従する者にこそ、神の言葉が預けられ、神の働きを目の当たりにすることができるのです。 あらかじめ神に定められた存在とされているところに、人間の尊厳があるのです。