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「最初のクリスマスを迎えるヨセフ」 マタイによる福音書1章18~25節

2023-12-03

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と言います。 当時のユダヤでは、「婚約」とは法律上の夫婦となることで、その婚約を解消する場合には正式な離婚手続きが必要でした。 「婚約」していたマリアがすでに妊娠していた事実を、ヨセフは唐突に突き付けられたのです。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 ヨセフの「苦しみや困惑」を容易に推し量ることができます。 しかし、不思議にも、ヨセフの「怒りや悲しみ」はあまり伝わってきません。 マリアは「姦淫の罪」により法廷で裁かれ「石打ちの刑」に晒される。 ヨセフは受け入れ難い事実に直面させられ、「苦しみと困惑」に苛まれていたのですが、マリアに対する「疑いや嫉妬」ではなく、愛するマリアに対する思いやりが全面に出ています。 マリアを晒し者にしたくない。 むしろ耐えているのはマリア自身ではないか。 だから、二人の証人の前で離縁状を出し、しかるべき手続きをひそかに行うことが自分にできる最大の思いやりではないかと思い悩んだ。 律法や社会常識に照らした「正しさ」、マリアに対する「人間愛」との二律背反の中で出した「正しい人ヨセフ」の決断が、「ひそかに縁を切ろう」というものであったのでしょう。 ヨセフが困惑と苦しみの中で自分の「正しさ」を絞り出していた時です。 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。 その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである。」と神に呼びかけられます。 「ヨセフよ」ではなく「ダビデの子ヨセフよ」という呼びかけに、イエス・キリストに至るまでの系図の重みを感じたのでしょう。 「恐れるな」という最初の言葉に、「恐れている」自分自身が砕かれ、新しい神の国の世界が開かれる呼びかけに聞えたのでしょう。 頑なな「正しさ」が砕かれ、神の祝福の約束の言葉への神の招きに聞えてきたのでしょう。 今までの困惑と苦しみからヨセフが解放された瞬間です。 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」とは、神ご自身の直接の介入によって起こされた出来事で、マリアやヨセフの側の問題ではない。 「神は救いである」という名前も付けられ、すでに預言者によって語られたことが実現するためであったと知らされたのです。 新しい救いの歴史が始まる、自分たちも含め神のもとを離れてしまったすべての人びとを取り戻すためのしるしが、自分たち二人に託されたのだと聞き届けたのです。 「ヨセフは眠りから覚めると」、妻マリアを迎え入れ、その胎の子をイエスと名付け、夢で命じられたことを決して拒まなかった。 しかし、ヨセフは操り人形のように動いたのではなく、自ら決断して立ち上がったのです。 眠りから覚めたのです。 世間的には、イエスはヨセフの子と思われていたと記されているように、後ろ指をさされるような、またイエスの誕生の時だけに用いられた短い生涯であったかもしれません。 ヨセフなくして最初のクリスマスはなかったのです。 困惑し苦しむヨセフの姿こそ、今の私たちの姿なのではないでしょうか。 困惑と苦しみの中で、神の呼びかけ、神の約束に託して生きていく、思い巡らしながら小さな決断をもって神に応えていく。 困惑と苦しみが祝福に変えられる時が必ずくる、神が共にいてくださるというインマヌエルの福音を味わう時がくる。 この「神の招き」を軽んじることなく、神が用意してくださったものを自らの決断をもって選び取って身に引き受けていく。 私たちの信仰の土台であるイエス・キリストを受け容れていくクリスマスの喜びを身に宿しましょう。 



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