秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「託された必要なもの」 マタイによる福音書25章14~30節

2020-01-12

 イエスがこれから迎えるご自身の十字架での死を直前にして、愛する弟子たちとのお別れにこの「譬え」を語っています。 イエスはひと度、しばしの間、弟子たちの前から姿を消すことになる。 しかし、必ず戻ってくると語っています。 「主人は、これから旅に出かける。」と僕たちに言います。 「主人」とはイエスのことです。 「僕たち」とは愛する弟子たちのことです。 この「譬え」は、イエスと僕たちの関係について譬えているのです。 決して、人間どおしの「道徳」を譬えているのではありません。 主人がしばしの間の旅に出かける前に、「自分の財産を、僕たちに預けた。」と言います。 その財産を、「タラントン」という通貨単位をもって表現しています。 1タラントンとは、6000デナリオン。 1デナリオンは一日の賃金相当であったと言いますから、1タラントンと言えども相当な額の財産ということになるでしょう。 それを、「それぞれの力に応じて預けて、主人は出かけた。 しかし、かなりの日がたってから、主人が帰ってきてから精算を始めた。」と言います。 この「タラントン」とは何でしょうか。 「それぞれの力に応じて預けられる。 預けられたものを倍にして返す。 預けられたものをそのまま地の中に隠しておく。」とはどういうことでしょうか。 主人は、いったい僕たちの姿の何を見つめておられたのでしょうか。
 「タラントン」とは、主人のものです。 しばしの間だけ、僕たちに預けられたものです。 僕たちの所有物でも、予め備わっているものでもありません。 1タラントンだけでも豊かなものです。 主人は僕たちを信頼して、その「タラントン」と「時」をその務めに応じて託したということでしょう。 ところが、「忠実な僕だ。 よくやった。 もっと多くのものを預けよう。 わたしと一緒に喜んでくれ。」と言われた僕と、「怠け者の悪い僕だ。 預けられていたものを取り上げられる。」と言われた僕とに分かれました。 主人は預けたものの成果をご覧になって喜ばれたり、悲しまれたのではありません。 それぞれの務めに預けられたことを喜んで用いた僕の姿を喜んでおられるのです。 主人は、その喜びをともに分かち合いたいのです。 そうではなく、自分がなくしてしまったら主人に咎められる、責められることを恐れて、主人のみ心に応えることができなかった僕の姿に、主人は悲しみを覚えたのでしょう。 一緒になって喜びを分かち合いたいと願う主人のみ心を知ろうとしないで、自分の身に迫ることだけに目を向けた僕の姿、むしろ、預けたものを減らすことのなかったことを褒めてもらおうとした僕の姿を、主人は悲しんだのです。 イエスのこの厳しい言葉は、神の御心を忘れ、自分の身を守るために神の言葉の形だけを守ることに専念した当時のファリサイ派の人々の姿に向けた悲しみの言葉でしょう。 
 「主人が帰ってくる時がやがてくる。 精算を始める時がくる。」のです。 その時こそ、イエスとともに喜びを分かち合う時です。 神の国が訪れる「その時がやってくる」と、イエスは愛する弟子たちにしばしの別れをこの「譬え」で告げておられるのです。 ご自身が大切にしておられるものを託して預ける。 再び出会うとき、預けられたものを用いた恵みを持ち寄って互いに喜びを分かち合おうと、呼びかけておられるのです。 預けられるものは、イエスを通して注がれる一方的な恵みです。 私たちの身に備えられる資質や才能といったものではありません。 私たちの忠実さや努力によって勝ち取られるものでもありません。 神の持ち物です。 神のご用のために用いられるものです。 ですから、この預けられたものは自ら必ず、預けられた人を用いて神のみ業を成し遂げるのです。 そのための「しばしの間」と「タラントン」と「恵みの喜び」なのです。 



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