「私たちのうちに宿る言葉」 エレミヤ書 15章16節
預言者エレミヤは、主の言葉が直接臨んで召された預言者でした。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と、主なる神に告げられたエレミヤはしり込みをします。 「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎませんから。」と逃げ出そうとするエレミヤに、更に主の言葉が及びます。 「若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。 見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。 見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。」と、エレミヤを送り出したのです。 これが、エレミヤの預言者として召し出された時の「み言葉体験」でした。
主なる神に託されたみ言葉は、神を捨て、神に背き、踏み外したその道から悔い改めしようとしないユダヤ、エルサレムに向いました。 厳しい裁きの言葉を告げられたのでした。 エレミヤはこのユダヤの国を愛するがゆえに、主なる神から託された厳しい言葉によって、その滅びを嘆き悲しみました。 預言者として、この国そしてその民のために執り成そうとしたけれども、主なる神に拒まれてしまった。 主の憤りの言葉を語れば語るほど、社会を混乱に陥れる無用な人物と排斥され、反発を受けた。 エレミヤは、人々からも、また主なる神からも退けられるという孤独な道を歩まなければならなかったのです。 「わたしは災いだ。 わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。 国中でだれもがわたしを呪っている。」と嘆いたのです。 それだけではない。 「わたしは独りで座っていました。 あなたはわたしを憤りで満たされました。 なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、癒えないのですか。 あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。」と、ついに不信仰な訴えを口にするまでになったのでした。 エレミヤは悩み、嘆き、悲しむ中においても、民のために執り成しを訴え続けます。 主なる神との深刻な対話を繰り返し、その格闘の末のエレミヤの言葉が、「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。 あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」という告白でした。 エレミヤは何度も何度も神の御言葉を求めました。 召し出されたその時から、神の呼びかけと語りかけを決して聞き流しませんでした。 エレミヤは、その御言葉をむさぼり食べたと言うのです。 食べ物が、食べた人の体の一部となっていくように、み言葉を体の一部になるまでに食べた。 そのような体験をしたとエレミヤは言うのです。 神のみ言葉が、私の言葉になる。 私のからだに刻まれたみ言葉になる。これは、大げさな表現なのでしょうか。 エレミヤは、「むさぼり食べたその御言葉が、わたしのものとなった。 そのわたしのものとなった御言葉が、わたしのうちで喜び踊る心を産んだ。」と告白しています。 エレミヤは、み言葉によって新たに生きる者とされました。 むさぼり食べたそのみ言葉を語り続ける者とされました。 人がどのような言葉を見つけ出して、それをからだに刻みつけて支えられているかによって、その人のあり方や生き方が定まります。 その人のうちに宿った主なる神のみ言葉は、その人のところに留まりません。 霊が働いて、新しい命を産み出します。 それが躍動して、人から人へと語りかける言葉となって伝わります。 そこには、み言葉によって生まれた新しい「私」が生まれます。 み言葉は、私たちのうちに宿るのです。 それが喜びとなって、霊によって躍動して伝わるのです。 私たちはどのような言葉を内に宿すのでしょうか。