「すべての人に宣べ伝えよ」 使徒言行録10章9~16節
新たな出会いは、新たな喜びをつくり出します。 キリスト者の出会いは、特別なものです。 大切な人との関係が引き裂かれる時、私たちは痛みを憶えます。 その痛みの根本には、神との引き裂かれた関係があります。 私たちは互いに、痛みを憶えることになります。 しかし、私たちだけでは、この傷の痛みを癒すことはできません。 神さまは、この罪によって引き裂かれた関係を修復してくださるのです。 「救い」という言葉には、薬の軟膏という語源にあるように、傷に塗って癒すという意味合いがあります。 「救い」は、罪によって生じた人生の傷を癒すものです。 ユダヤ人ペトロと異邦人コルネリウスという二人の人物が、神さまによって引き合わされることによって初めて、異邦人のキリスト者が誕生したことが語られています。 コルネリウスは、「イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と紹介されています。 当時のれっきとしたユダヤ教の信者ではなかったけれども、神を畏れ、民に愛の行いを為し、絶えず神に祈っていた異邦人でした。 真の神を知らないで、神を求めていたコルネリウスです。 その祈りが神のみ前にすでに届いていたのです。 その祈りに神さまは応えて、救いを求める者に福音を告げてくださるのです。 「ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」と神のみ声がコルネリウスに響いたのです。 ペトロは、イエスにもっとも傍近くにあり愛されていたユダヤ人でした。 時を同じくして、ペトロもまた屋上に上がって祈りをささげていたというのです。 そのペトロに、「清くない物、汚れた物と思われる物を屠って食べなさい」と、神は告げます。 このみ声の意味はいったい何だろうと不思議がっているペトロに、コルネリウスの招きが届いたのです。 そして思い悩むペトロに、コルネリウスのもとに「ためらわないで一緒に出発しなさい」と再び告げられたのです。 コルネリウスに告げられた神のみ声と、自らに語られた神のみ声をペトロは聞いて、神の導きであることをその時悟ったのです。 しかし、異邦人のコルネリウスとユダヤ人のペトロです。 当初の教会は、異邦人には伝道をしていなかった時代でしょう。 互いに大きな決断と勇気が必要であったように思います。 コルネリウスがユダヤ人であるペトロを迎え入れて、福音の言葉を受け入れたのです。 異邦人に福音を伝えることが神のみ心であると告げられ、悟ったから、ペトロは異邦人の家に出かけて行ったのです。 互いの決断と勇気が神の業を進めたのです。 そこには、彼らの絶えない祈りがありました。 彼らの祈りが聞き届けられて、よみがえりの主が先立って働いていてくださいました。 何よりも主イエスキリストの先立つとりなしの祈りがささげられていました。 この主イエス・キリストの先立つ祈りが、ばらばらとなってしまった関係を結びつけてくださったのです。 結びつけてくださるその源には、主イエス・キリストがおられます。 主イエス・キリストの十字架によって、父なる神につないでくださったのです。 ペトロにとっても、コルネリウスにとって、また私たちにとっても不思議としか言いようのない神の業です。 私たちには常識があります。 正しいと思い込んでいることがあります。 しかし、神はそれを覆して、「清くない物、汚れた物」と思われることでも、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言い、準備万端整えて私たちを導いてくださいます。 それが新しいキリスト者の誕生のために用いられたのです。 ひとりの異邦人のキリスト者の誕生に、ユダヤ人であるペトロがその違いを越えて用いられたのでした。 私たちはこの務めのために「キリストのからだ」である教会に招かれ、導かれ、救われ、用いられるのです。