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「主イエスとの交わりにある者」 ヨハネによる福音書11章1~16節 

2016-09-18

 主イエスはしばしばエルサレムの都を訪れる際に、ある家庭を拠点とされていたようです。 エルサレム近郊にあるベタニアという村に住んでいるマルタ、マリア、ラザロの家でした。 この家庭の中の兄弟愛に加えて、「イエスはマルタとマリアとラザロを愛しておられた」と聖書に記されているように、主イエスとの深い交わりのなかにあった仲の良い家族でした。 その家族の一人ラザロが瀕死の病にかかっている。 姉妹たちは、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、遠く離れたイエスに訴えます。 しかし、イエスはその知らせを受けても、そこを動きませんでした。 「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子がその栄光を受けるのである」と言い、神の時を待っておられました。 そして、二日後一変して、「もう一度、ユダヤに行こう。 わたしの友ラザロが、そこで眠っている。 わたしは彼を起こしに行く。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。 あなたがたが信じるようになるためである。 さあ、彼のところへ行こう。」とまで言い、自らの身の危険を顧みずご自身の業に向けて出かけたのでした。 イエスは、ラザロは死に至らないと言っているのではありません。 死で終わらないと言います。
イエスがベタニアに到着した時には、ラザロは墓に葬られて既に四日が経っていました。 諦めと絶望のマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟ラザロは死ななかったでしょうに。」と言います。 それでもイエスは「あなたの兄弟ラザロは復活する。」と言い続けます。 マルタの諦めと絶望は、彼女から離れません。 「そんなことは知っています。 終りの日の復活の時に復活することは教えられて存じています。」 自分が死ねば、天の国に行って再び会える、そんなことは知っていると言います。 イエスが墓の前に立って、「墓を塞いでいる石を取りのけなさい。」と言っているのに、マルタは「主よ、四日たっていますから、もうにおいます。」と応じます。 それでもイエスは、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。 あなたがたが信じるようになるためである。」と言われたのです。 イエスはマルタやマリアの悲しみを悼むために、マルタとマリアのもとへ弔問のためにやってきたのではありません。 イエスは、神の時を待って、ラザロ本人を目がけて、眠りから起こすためにやってきたのです。 ラザロのうえに働かれる神の恵みの働きを目の当たりにして、マルタとマリア、弟子たちが信じることができるようになるためです。 マルタが悔やんでいるのに、イエスはよかったと言っている。 イエスは、ご自分との交わりをもつラザロの死が消えてなくなるようなものではない。 また遠いかなたにある復活でもない。 今、このベタニアの小さな家庭に起きる復活であると言います。 これこそ、イエスとともに歩み始める新しい命の始まりです。 復活されて今ここにおられるイエスに、マルタとマリアとラザロが、今、出会っているということです。 十字架の死と復活という出来事は、すべての人にこの新しい命の始まりに目を向けさせる神の招きです。 神はイエスを復活させ、イエスがラザロを復活させる。 その神の業を通して、マルタやマリア、弟子たちや私たちが新しい命に生きるようになる。 「あなたがたがそのことを信じるようになるためである。 さあ、彼のもとへ行こう。」とイエスは言われたのです。 イエスは、「このよみがえりの力を、あなたがたが信じるようになるためです。 塞いでいる墓の石をとりのけなさい。 そこから、出て来なさい。」と言われているのです。 私たちに、み言葉を受け入れる信仰と、私たちの覆いとなっている墓の石を取りのける信仰と、それぞれに応えて行く信仰が求められています。 



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