「母と子の祈り」 サムエル記上3章1~11節
ある人物の少年時代の姿です。 この人物こそ、イスラエルのダビデ王朝を造り上げるという大きな役割を果たした人物です。 主の言葉を厳しくとも隠さず語り告げ、初代の王サウルに油を注ぎ、二代目の王ダビデに油を注いで、イスラエルにダビデ王朝を備えた預言者サムエルです。 そのサムエル少年が、「祭司エリのもとで主に仕えていた」とあります。 しかし、この時代は「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」のです。 当時の指導者たちは、神の言葉に聞く者がいなかった。 神の言葉を包み隠さず語り告げる預言者もまた、まれでした。 しかし、聖書は「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた」、「サムエルが主に仕えていた」と語っています。 私たちの主は、直接、ご自身の言葉によって私たちにご自身を現わそうとされるお方です。 直に語りかけてくださる交わりを、心から喜んでくださるお方です。 そのために、直接「祈ること」が私たちに赦されています。 ここにあるサムエル少年の姿を見てください。 幼いながらも、「神の箱が安置された主の神殿」で祈りをささげ、礼拝をささげて神のそば近くにいます。 「サムエル」と直にその名を呼ばれる主に、「ここにいます」と祈りで答えています。 しかしサムエル少年には、それが主の声だとは分かりませんでした。 先生である祭司エリの声だと思った。 ですから、エリのもとに急いで走って行って、「お呼びになったので参りました」と言っているのです。 そんなことが三度もありました。 それは、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」からであると、聖書は言います。 そうであるなら、主のことが未だに分からなくても、主の言葉が未だに示されていなくても、主は私たちの名を呼んでくださっている事実を、このことは示しています。 祭司エリは「サムエルを呼んでおられるのは主である」と悟り、「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いております。』と言いなさい。」と、サムエルに教えたのです。
祈りには、二つの祈りがあります。 「僕は、話をします。 主よ、どうぞ聞いてください。」という私たちの「語りかける祈り」と、「主よ、お話しください。 僕は聞いております。」というエリがサムエルに教えた「聞く祈り」です。 私たちの祈りは徹底的に「聞いてください」という祈りです。 しかし、三度も呼びかける主の並々ならぬ思いを悟った祭司エリは、主の言葉を静かに聞き取る祈りをサムエルに教えたのです。 そのサムエルに、そば近くに立たれた主の四度目の呼びかけが届いたのです。 「どうぞお話しください。 僕は聞いております。」 これが少年サムエルの祈りです。 この祈りは、祭司エリに整えられた祈りでした。 それと同時に、サムエルの母ハンナの「待ち続ける祈り」の結晶でもありました。 子どもの与えられないハンナの「私に子どもを与えてください」という祈りが、「自分に子どもが与えられるなら、その子は主に仕えるためにおささげします」という祈りに変えられた母ハンナの「待ち続ける祈り」です。 私たちの身に起きるすべてのことが、主のみ業に結びついています。 語りかけておられる主の声に応える私たちの小さな祈りもまた、主のみ業に結びついています。 たとえ、私たちの求めるものが間違っていたとしても、求める方法ですら間違っていたとしても、私たちの主の名によって主のみ心に適うものに変えてくださるのです。 私たちの小さな祈りが、主の大きなみ業に結びつけられていくのです。 すべてご存じのお方の声に、「主よ、お話しください。 僕は聞いております。」と耳を傾けることです。 祈りは、主と私たちとの交わりです。 主のみ言葉に聞いて、それに応える私たちの働きです。