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「三度目に現れた復活の主」  ヨハネによる福音書21章1~14節

2016-04-10

 ひとりの女性の「わたしは主を見ました」という証言から、驚くべき復活の事実が拡がっていきます。 この証言にも、弟子たちは信じようとはしませんでした。 ユダヤ人たちの追手を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて家の中に閉じこもっていたのです。 弟子たちの閉ざされた心を乗り越えて、よみがえられたイエスが入って来られて、真ん中に立って、ご自身の手とわき腹をお見せになったのが弟子たちに現れた最初の光景でした。 「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われ、息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい。」と言われたのでした。 それでも、トマスに代表されるように、「あの方の手に釘の跡を見、この指を入れてみなければ、わたしは決して信じない」と本音で思っていた弟子たちは、相も変わらず家の中に閉じこもっていたのです。 その弟子たちに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたのが、二度目の光景でした。 そして、これらの弟子たちに三度目に現れたのが今日の聖書箇所です。
 その三度目の場所は、弟子たちがかつての日常生活に戻っているかのような場所でした。 ペトロの呼びかけに様々な弟子たちが一緒になって、魚を取りに舟に乗り込んでガリラヤ湖に行く。 聖書が語る「舟」とは、弟子たちの群れを象徴します。 手慣れたガリラヤ湖であったにもかかわらず、一晩中、かつてやっていたと同じような漁の仕方で試みたが何も取れなかった。 その弟子たちの姿を、イエスは岸辺に立って、その一部始終をご覧になっておられたのです。 弟子たちは、そのイエスに気づきません。 その弟子たちにイエスの声が届きます。 「子たちよ、何か食べるものはあるか。 舟の右側に網を打ちなさい。」 これが、その時のイエスの言葉でした。 聖書の言う「右側」とは、神の側のことです。 弟子たちの群れが一緒になって、かつてのような漁をしていた。 しかし、それは神の側の働きではない、 舟の左側に網を打っている。 一晩中、全力を傾けても、彼らが望むものは何も得ることができなかった。 しかし、神の側に目を向け、網を下ろしなさいとイエスは言われたのです。 それがイエスの声だとは分からなかったけれども、聞えて来た声の通りに網を打ってみると、網を引き揚げることができないほど多くの魚がもたらされたと言うのです。 その「しるし」を見て、弟子たちは岸辺で叫んで折られたお方がイエスであることを知ったのです。 私たちは、復活の主が現れる時、それがイエスであると直ちには分かりません。 イエスの方から私たちに働きかけられて、そのよみがえりの霊を吹き入れられて初めて、その出会いが始まります。 そして、私たちがその呼びかけに応えて、従って行って初めて、その存在が分かります。 弟子たちは喜んで、岸辺のイエスのもとに戻ってきたのでしょう。 そこには、炭火が起こされていた。 その上には、魚がのせてあった。 そして、よみがえられたイエスが、そこで待っておられた。 そのイエスが、「今とった魚を何匹か持ってきなさい。」 「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と招いてくださったのです。 恵みの大きさが大事なのではありません。 私たちがどれだけ、イエスが与えようとしてくださっているものを受け入れたかどうか。 み心に応えて従ったかどうか。 イエスは、「人間を取る漁師」にするために、決して破れることのない網を用意してくださっているのではないでしょうか。 そのために、「わたしもまたあなたがたを遣わす。 ですから、聖霊を受けなさい」とイエスは言われたのです。



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