秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「逃れられない神の遍在」 詩篇139編7~12節 

2023-10-22

 いったい「どこに行けば、どこに逃れれば、主なる神から離れることができよう。」と、「神の遍在」を賛美しています。 ただ「どこにでもおられる」というだけではなく、「どこででも、私たちをご覧になっている。」 私たちがどのような存在であるのか、何をしようとしているのか、何をしてきたのかを、「ことごとく、すべてにおいて、究めておられる」というのはむしろ耐え難いことです。 「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」という賛美には、この耐え難い驚きと同時に、それを越える喜びの響きを感じます。 私たちは、できれば隠しておきたい誰にも知られたくないことがあります。 神から逃れることができないという「恐れ」があるのに、「どこにおいても、いつでも捉えてくださっている。 御心のうちに導いてくださっている。」と思うことのできるまでになった「喜び」、御手の中に私自身をついに委ねることができた「喜び」が同時に存在しているのです。 このことは、創世記に克明に記されているアブラハムとサラの老夫婦の姿に見る思いがします。 「あなたの子孫は、星の数ほどになる」とまで言われた主なる神の約束にもかかわらず、二人には子どもが授かりませんでした。 妻サラは、「わたしの女奴隷ハガルによって子どもが与えられるかもしれません。」と夫アブラハムに迫ります。 妻の願いを聞き入れたアブラハムはハガルを側女として、イシュマエルが産まれるのです。 思うように捗らない現状に耐えかねた人間の浅はかな姿です。 その途端、ハガルはサラを軽んじるようになる。 ところが、主なる神は「さきに語られたとおり、サラを顧みられたので彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。 それは、神が約束されていた時期であった。」と記すのです。 神のご計画は、神の時に果たされます。 それまでの神の沈黙の時は、私たちが整えられる大切な時期です。 アブラハムは、サラとともに自分たちの思いだけで動いてしまったことを悔いたでしょう。 しかし、アブラハムは、主の言われたとおり「サラが産んだ子をイサクと名付けた。」 主によって備えられた約束の子であると信仰を改めて表し、主が約束を果たしてくださったことを賛美したと言う。 しかし、そのイシュマエルがイサクをからかうようになり、サラは益々態度を硬化させ、「イシュマエルは、わたしの子イサクと同じ後継ぎになるべきではない」と、ハガルとイシュマエルを家から追い出すようにアブラハムに迫るのでした。 それぞれの立場を考えれば、どうすることもできない八方ふさがりの状況ですが、神はそこで介入されるのです。 なんと、「すべてサラの言うことに聞き従いなさい。 あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」と、サラの一方的な言い分としか思えないようなことにしなさいと言われる。 このことは、人の思いだけでは納得することも説明することもできないことです。 しかし、神は「あの女の息子も一つの国民の父とする。 彼もあなたの子である。」とつけ加えるのです。 この神の呼びかけに、優柔不断の男にしか見えなかったアブラハムが素早く行動に出ます。 「次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。」と言う。 主なる神が追い出されたハガルとイシュマエルを支え、養いの執り成しを施すのです。 神の知恵と力にすべてを委ねて、周りの人々の批判を一切身に引き受け精いっぱいの責任をとって耐えるアブラハムの姿ではないでしょうか。 見える世界ではサラの思い通りのように見えますが、霊の世界においては神の御心であったのです。 神がすべて捉えてくださっていることを信じることができた喜びを、詩編は賛美しているのです。 私たちは、遍在しておられる神の前に立たされていることを先ず受け入れ、それに耐えることが、遍在の神の御心に触れる唯一の道なのではないでしょうか。



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