「生かされた枯れた骨」 エゼキエル書37章10~14節
聖書箇所の当時のイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂をしていました。 このイスラエルはバビロニア帝国に征服され、国を失い、民の神を崇める神殿も失い、「焼野原、荒野原」とも言うべき状態に陥ってしまった。 イスラエルの民は帰るべきところを失ってしまったのです。 主なる神はその民の中からエゼキエルに目を留め、呼び出されるのです。 エゼキエルは、南ユダの国の王とともに、イスラエルからバビロニア帝国の首都バビロンの地まで、敗戦国の囚人として強制的に移住させられたイスラエルの祭司でした。 主なる神はエゼキエルに、「自分の足で立て。 わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。 口を開いて、わたしが与えるみ言葉を食べ満たされなさい。」と呼びかけるのです。 異民族、異文化の中で自由を奪われ、捕らわれの身で希望を失っているイスラエルの民は、「我々の骨は枯れた。 我々の望みは失せ、我々は滅びる。」と嘆いていたと言います。 「骨が枯れる」とは、望みを失い、神の霊が失せ、神なき世界に虚ろう人間の姿を象徴的に表現しています。 自分たちを守ってくれなかった神に対する疑いの念、自分たちの故郷が「焼野原、荒野原」と化してしまった現実に沈み込んでいた民に向けて「主なる神の言葉を語れ。あなたは恐れてはならない。 たじろいでもならない。 そのイスラエルの民と同じようにわたしに背いてはならない。」とエゼキエルに迫るのです。 そして、エゼキエルは主なる神の霊に連れ出され、「枯れた骨の谷」の幻を示されるのです。 その有様は、戦いに敗れた多くの人々の骨の山であったかもしれない。 長い捕囚生活に耐えかねて望みを捨ててしまったイスラエルの民の絶望の姿であったかもしれない。 あるいは、この世の権力に身を委ね、神なき世界に安住してしまった諦めの姿の象徴であったかもしれない。 神はエゼキエルにこの幻をもって目を開かせ、見せて、示すのです。 「これらの骨は生き返ることができるか」と神は問い、エゼキエルは「あなたのみがご存じです。」と答えるのです。 自分自身も妻を亡くし、失望も落胆もしていたエゼキエルですから、すぐさま神に「あなたの言われる通りです。 あなたなら多くの枯れた骨を生き返らせることができます。」とは、とても言うことができない。 精一杯のエゼキエルの答えが、「あなたのみがご存じです。」という答えではなかったかと思うのです。 このエゼキエルの信仰告白を通して、神は、「これらの骨に向かって、枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 その中に霊を吹き込む。 霊よ、四方から吹き来たれ。 すると、生き返る。 わたしが主であることを知るようになる。」と言われたのです。 神は、「墓を開く。 主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。」と約束されたのでした。 神はエゼキエルに「死」が支配している実相、神なき世界の憂いに満ちた姿に目をそらさず、今まで見えていなかった姿を見抜かせる。 墓場のようなところから、私たちを立上がらせ、生き返らせる。 息を吹き返しただけでなく、新しい創造とも言うべき回復と復興のために用いられるのです。 「焼野原、荒野原」と化し、望みを失った「枯れた骨、残された者」こそ、主なる神は生き返らせ、立ち上がらせ、ご自身のご用のために用いられるのです。 「枯れた骨、残された者」とは、絶望と落胆と悔い改めという神の前での霊的な「死」を体験した人たちのことを言うのでしょう。 「枯れた骨」がカタカタと音を立てて重なり合って、繋がり合って、そこに筋や肉が皮で覆われ、新しい大きな群れとなっていく。 南北に分裂していたイスラエルが再統一される。 イエス・キリストという一人の王、一人の牧者によって一つの民となっていくのです